反日本人論―A Touch of Nature [ドドにはじまる]

Robin Gill 著
工作舎
刊行:1985/02/20
大阪梅田の古本屋梁山泊で購入
読了日:2001/10/27

いわゆる「日本人論」の多くが、世界とその歴史に対する無知に基づく あまりにも単純で独善的なものであることに対し、著者が憤慨して書いた本。
わたくしの考えでは、この大和国(ビッグ・ピース・カントリー)の場合に 限っては、大自然と小自然(=人)の付き合い方を考えようとするとき、 最大の邪魔者は「日本人論」、あるいはそのたぐいのいかがわしい”比較” 文化論にほかならない。(中略)本書は日本人論ではないのだが、 「日本人論」めかした”定説”との running battle 動滑的な合戦を、 その縦糸として取り入れている。しかしその横糸はむしろ、こだわることのない フリースタイルで、蛾の求愛から男とスカートの話までを思う存分語った。 (「まえがき」より)
全体的に言えば、この前書きの言葉通り、本書はいろいろな題材を元に述べている本である。

この 400 ページにもなる本を、著者は自国語ではない日本語で書いたの だそうな。たいへんな力量であり、恐れ入る。私は、自国語である日本語で でさえこんな分厚いものは書けそうもない。ただ分厚すぎて、私は 読み通すのに、かなり時間がかかってしまった。途中で一月くらい読むのを 休んだりしながら読んだので、最初の方はもう忘れてしまった。

この本を読むと、いわゆる日本人論がいかに世界とその歴史に対する 無理解に基づくものが多いかが分かる。日本の歴史にさえ、 無理解であるものも多い。著者は以下のポール・ヴァレリーの言葉を引用している。

歴史はすべてを包含するもので、必要に応じて必要なだけの実例を提供する。 そういう意味では、歴史は、何も”教える”ことはしない。勝手に 人の思うとおりに、何もかもを正当化する手段であるだけだろう。 (Regards sur le monde actual, 1937 年;本書「あとがき」より)
実際、もちろん日本人らしさとか○○人らしさとかいうことはたくさんある ものの、きちんと分析すれば、そう単純に「島国根性」とか「農耕民族」とか いったことばで割り切れるものではないことがわかる。

本書にはいろいろ興味深いことがらがいろいろ書かれている。 以下、印象に残った部分をいくつか挙げておこう。

日本「島国」説について
日本は島国ではあるが、だからといって外界に疎いということにはならない。 古代には陸路よりむしろ海路の方が交流が容易だったということはありうる。 かりに「島」の意味を問わないことにしても、それから「以心伝心」のようなことに もってゆく論理には問題がある。事実、小さな共同体を形成する少数民族に レトリックが発達しているものが多い。

日本人が「農耕民族」で西洋人が「狩猟民族」であって 云々という説について
ヨーロッパの農業の歴史は 6000 年前に遡り、日本の弥生時代の始まりの 4000 年前よりも古い。ヨーロッパでも農耕文化は深く根付いており、 たとえばドイツには、「とうもろこし母さん」「トウモロコシの精」などの 農耕習俗がある。

西洋庭園が「整形式」で日本庭園が「自然式」である という見方について
幾何学的造園スタイルは、本来は西洋的なものではない。西洋が、 その東南のギリシャ・ローマ古典文明や中東、アジアなどから 輸入したものである。これに抵抗を感じる人も多くあり、 実際18世紀には、そのような庭園を批判する文章がイギリスなどでいろいろ 出ている。「刈り込まれた幾何学的に形を整えられた植木よりも、 大枝小枝を自然のままに心ゆくまで生い繁らせた木を眺めるほうが どれだけ良いかしれない」(イギリスの作家アディソン, 1712年)

日本語には「擬声語・擬態語」が発達しているが、 英語にはないという考え方について
これは表現の仕方が違うだけ。日本語で「○○と鳴く/泣く」と いう代りに、英語では blubber, cry, howl, scream, shriek, sob, whimper, whine, yell, yowl などの様々の動詞を用いる。これらの 動詞の響き自体が擬声語のようなものである。

なぜ、男はズボンをはきスカートをはかないか、という ことに関する考察
西洋人がズボンをはくようになったときに、男のファッションが抹殺されていった。 以後、文化帝国主義により、世界の男がズボンをはくようになった。 もともと、昔の日本人はかなりおしゃれをしていた。 日本人の「どぶねずみ色スーツ」も、もともと 1950 年代のアメリカスタイル。