この中では、中野論文の指摘におもしろいものがあるので、 何カ所か引用しておく。中野論文は、まず、次のような、 日本で起っていることを象徴する文章から始まる。
「いやぁ、私は科学技術に弱いもんで…」これは、「理科離れ」問題を象徴する現象である。現代の世の中が、 発達した科学や技術を基盤にしている以上、ある程度の 知識と関心がないと、今後日本社会が崩壊するのではないかと 憂慮してしまう。この現象の背景の本質が何かは、この論文では それほど深くは議論されていないが、その背景となる現象として 印象的なことが2つ書いてあったので、引用する。
よく耳にするフレーズである。往々にしてこのとき、小さな笑いがともなう。 しかし、”弱い”ことを恥じる笑いではない。「科学技術は弱いが経済の ことなら…」、あるいは「科学技術は弱いがゴルフならば…」という自負が にじみ出た笑いだ。日本では、科学技術に関して無知・無関心であることが 恥ずかしいことではないのである。
ひとつは、図書館が文系に傾いているということである。
”知の館”であるべきはずの図書館が、いつのまにやら傾いているのだ。 人文科学系や社会科学系の書籍・文献は、古典から現代の入門書にいたるまで 充実しているのだが、自然科学系の蔵書はあきれるほどに貧弱である。もうひとつは、学校の先生に理解がないということである。 著者の息子さんとそのお友達が、夏休みの自由研究でホバークラフトを作り、 レポートをきちんと提出したというくだりで、
ところがその後、二人は「開発の記録」を大幅に書き換えることになってしまった。 設計や作るプロセスの説明が長すぎるので、端折るようにと学校に言われたのである。 私は、材料の選び方や使い方に、子供たちなりの工夫があり、そこを 評価していたのだが、展示用として残されたのは、完成したホバークラフトの 構造の説明程度にすぎなかった。(中略)ということが書いてある。
展示をながめてきて感じるのは、高い評価を受けるのは”昔ながらの自然観察” だということである。「身近な川に住む生き物」「トウモロコシの成長」など、 ある種のパターンに占められているといってよい。
日本の学校教育は、「子供の感性」を大事にするあまり、論理的能力を 軽視していると私も思う。一つは国語教育がそうである。文学に偏りすぎ、 論理的文章を読み書きする能力を軽視している。上の様子だと、理科もそうである。 自然を愛でることはもちろん重要だが、それを論理的にひもとく能力も 同様に重要であることを忘れてはならない。
ところで、そのあとにマスメディア批判が書いてあるが、それには 少し賛同できないところがある。
日本のメディアは、政治や経済の話になると、重箱の底をほじくるどころか、 孔をあけてしまうほどに調べまくる。しかし科学技術がらみの事件や事故では、 手のひらを返したように内容の浅い報道になってしまう。これは相対的には正しいと思うが、私の印象では、マスメディアは、 政治経済の話も、なかなか背景の思想をきちんと分析してくれない ことが多いので、不満である。やはり論理性に弱いのではないか。