で、この本の場合はどうか?佐和氏の専門の経済に関しては、おおむね 今でも当てはまっていると思うが、政治に関しては多少見方が甘かったと 言わざるを得ない。
経済に関しては、本書では、日本経済が1990年代に転換点を通り、 成熟化社会に入ったとみている。成熟化社会では、平均的な経済成長率が 年率2%台前半にまで鈍化し、その振れも大きくなる、としている。 これは、現在のいわゆる「不況」を見ても、おそらく大筋で正しい。 ただ、今見ると、この2%台前半という数字も大きすぎるかもしれない。 いずれにしても時代が変ったという認識が重要である。 未だにそれが分かっていない人が多いことが問題である。 あとがきには、以下のように書かれている。
平成不況の意味をさぐり、それへの適切な処方箋を書くにあたっても、 在来型の経済学の枠組みに固執するかぎり、八方塞がりの閉塞感をぬぐえない。 なぜそうなのか。理由の第一は、経済政策の選択が「価値自由」では ありえないからである。第二は、80年代後半、この国の経済構造に大いなる 質的変容が及んだため、数量的な財政金融政策の内需誘発効果がうすれた からである。この理由の第二の方が、上の成熟化社会ということと直接関連している。 この理由の第一の方は、保守主義とリベラリズムという価値観の違いが 経済政策と不可分であることを言っている。 そのことが明快に書かれているのが、本書の特色である。
経済状況に関して、今の日本がさまざまな矛盾や不公平を抱えていることを この本では指摘している。90年代の政府はその点に関しては無策だったから、 この本の指摘は現在にもそのまま当てはまる。それが誰の目にも明らかになって きていることが、現在の小泉人気につながっている。不公平の一つは 税の捕捉率の問題だ。これは消費税導入の時には話題になったが、 今やマスコミはあまり話題にしてくれない。解消もされているわけでも ないだろうに。
この本では、90年代の政府の経済政策が誤っていたことを次のように 指摘している。中曽根政権が新保守主義の旗色を鮮明にした、 ということを記した後で、
ところが、不況が深刻化するにつれ、企業経営者もエコノミストも、 草木もなびくがごとくに、いっせいに保守主義者からケインズ主義者に 転向したかのようである。「これはいったいなにごとか」と私は問いたい。 新保守主義の泰斗ミルトン・フリードマンならば、おそらく次のように いうであろう。ケインズ主義的な財政金融政策によって、 経済成長率に影響を及ぼすことはできない。そもそも経済成長率なるものは、 労働力人口の増加、資本設備の規模拡大、そして技術進歩という、数量的な 財政金融政策の及ばざる供給側の要因により決まる筋合いのものである。 たとえば、金融緩和により内需を誘発し、需給ギャップ(潜在的な供給力が 需要を超過すること)を解消しようとしても、結局のところ、 インフレーションを招くだけである。と書いている。これも今見てもたぶんだいたい正しい指摘である。もっとも、 現在の経済は、インフレーションにはならず、結局デフレーション気味に なっているが。
(第2章より)
政治に関しては、第1章で、「二大政党のアメリカ型か、三党鼎立のイギリス型か、 そのいずれかの再編成が90年代半ばすぎに完了するであろう」としている これは、保守主義とリベラリズム(と社会民主主義)という対立が尖鋭化 するだろうという予測である。しかし、予測は、現在の状況を見れば 全く外れていることがわかる。それほど世の中の動きは理想的ではなかった。 自民党にしろ民主党にしろ、自分たちの価値観をそれほど鮮明にできないからだ。 いろいろなしがらみがあることが最大の理由ではあろうが、ひとつの側面 としては、価値観の多様化している時代には、それほど、保守主義と リベラリズムという対立だけで話がすまない部分があるせいだと思う。 本書はそのような対立軸を描き出すことで、本としては明快になっているが、 その座標軸で政治の予測までしてしまっているのは、行き過ぎている。 世の中、経済だけではない。