第7章では、環境問題の国際化の背景には、ヨーロッパで 1970 年代から 酸性雨が問題になり、環境を国際問題として捉えるという視点が 発達してきたことが語られる。この点は、最近の地球環境問題に対して、 アメリカの政府が思想的に「遅れて」おり、ヨーロッパの政府が 「進んで」いる背景であろう。
最後の第8章では、日本社会の構造的問題、とくに「構造化された パターナリズム」が問題とされる。これは、「権威」の言うことには 口を出さない、ということである。それは、とくに、政策立案が 官僚によって独占されるということに現れている。日本では、 地球環境のような新しい問題に対しては「権威」がいなくなって しまうので、結局アメリカに寄生することになる。
これと関連して、大学が以下のように批判されている。
大学の凋落が言われてすでに久しい。いまの国立大学は、民営化直前の 国鉄に似ているとすら言われる。その一因として、日本の大学アカデミズムが 全体として、現代社会が直面する重要課題に真摯に取り組んでこなかったことを 挙げてもよいだろう。大学内にはなお、現在進行中の問題に取り組むのは、 ジャーナリズムに迎合する二流研究者と蔑む雰囲気が強い。なるほど、 大学は世俗社会とは無関係の高尚な命題を扱う場とする信仰はかつてはあった。 しかし世界的には20年ほど前から、何のための研究かが鋭く問われだし、 研究を支える動機は、個別埋没型から課題志向型へと移行してきた。ところが、 日本のアカデミズムは、大学の自治、研究の自由を盾に、この歴史的な反省の うねりを黙殺する安逸な道を取り続けてきた。耳の痛いところである。(中略)
アメリカで社会科学とは、ほとんど政策科学のことであり、 いかにしてホワイト・ハウスに影響を与えるかが、研究者にとっての第一の 存在証明になる。
このような政府・議会と学術研究の一体化現象には、その根底に、これを 正当なものとみなす堅固なイデオロギーがある。その基本はプラグマティズムの 伝統である。これは、知識はどんな形であれ人間の生活に活用されるべきだし、 人はそう努力する義務があるとする信念だと言い換えても良い。
それは、Hansen et al (1988) 論文の誤訳(あるいは正確さを欠く訳) である。私も気象は専門ではないが、地球物理屋としてある程度はわかる。 この本の日本語を読んでいて意味が取れないところがあったので、 原文に当たってみた結果が以下の通りである。
Hansen, J., Fung, I., Lacis, A., Rind, D., Lebedeff, S., Ruedy, R., and Russell, G. (1988)である。
Global Climate Changes as Forecast by Goddard Institute for Space Studies Three-Dimensional Model
J. Geophys. Res. Vol.93, 9341-9364
それから、36 ページあたりに「数値実験」や「計算機実験」というような 概念が Hansen et al の論文で始めて出てきたようなことが書いてあるが、 私の感覚からすれば、とくに気象業界ではもっと昔から使われている ように思う。どこまで遡れるのか、良く知らないが、少なくとも私の 学生のころからすでに普通に使われていたと思う。もちろん、私は その言葉を最初に聞いた時はびっくりしたが、でも使っている人は すでに日常的に使っていたようだったので、1988 年が最初ということは ないのではないだろうか。暇だったら歴史を調べてみたいところである。