アフリカ史案内

Basil Davidson著、内山敏訳
原題: A Guide to African History
岩波新書 青533、岩波書店
刊行:1964/08/20(原著は1963)
名古屋本山の古本屋光進堂にて購入
読了日:2002/11/05
南部を除くアフリカ各国が独立した1960年の直後に書かれたアフリカの歴史の あらまし。植民地時代以前のアフリカが未開の蛮族の地であったという 誤った偏見を正し、できるだけ公平にアフリカの歴史を語っている。 もちろん、文字をもたない文明が多かったり、奴隷貿易から植民地時代に かけての破壊がすさまじかったために、よくわかっていないことも多い。 現在でも政情が安定しない国も多いことから、その後もどの程度研究が 進んでいるのか疑問な気がする。

項目が比較的細かく分かれているので、目次をたどってゆくとだいたいのことがわかる。 以下目次に沿って概要を書いてゆく。

  1. 一友人への手紙:これは前書き
  2. はじめに:人類はアフリカから広がった。農耕定住の始まる新石器時代は 中東から始まり、北アフリカは 6000 年前ころまでには新石器時代に入った。 サハラの乾燥化のため、サハラ以南に農業が始まったのは 4000-5000 年前のこと。 西部・中央アフリカの大森林の縁辺部では、穀物が栽培された。東部・中央アフリカの 高地では、牧畜が始まった。
  3. 食物とともに拡大する:2000 年前、ヤマノイモとバナナが東南アジアからもたらされた。 同じころ、北アフリカから製鉄技術が南方に広まった。
  4. 金属時代:エジプトの衰退後、(1) フェニキア人がサハラ横断ルートを開拓(500BC ころまで)(2) 現在のスーダンにいたクシュ人が王国建設(9C BC)、さらに エジプトを侵略しエジプト第25王朝建設(751BC から約 100 年間)、鉄器文明 がさかん (3) 現在のエチオピアでアクスム人が王国建設(約 2000 年前)。 サハラ以南では 500BC くらいから鉄器の使用が始まる。とくに中部ナイジェリアの ノク文化(2C-3C BC) は重要な鉄器時代文明。
  5. 1000年前:1000AC くらい、北アフリカは回教国が支配。科学や哲学がさかん。 西アフリカにはガーナ帝国(現在のマリのあたりが中心)が存在。 東アフリカには交易都市が発展。スワヒリ文明の初期段階。 内陸のリフトバレー周辺には初期鉄器時代の文明があった。
  6. 諸国家や諸帝国:西アフリカでは鉄の武器を背景にガーナ帝国が繁栄。 塩を輸入し黄金を輸出していた。とくに、ヨーロッパの黄金はここから供給されていた。 11C マンティゴ族が、ガーナに代わりマリ帝国を作る。回教徒のスルタン(マンサ)の 下で西アフリカ一帯を支配。同じ 11C ころ、西ナイジェリアではヨルバ族が多数の 小国家を建設。とくにオヨ王国は強大。
  7. 東海岸の諸都市:東アフリカの海岸には貿易都市が繁栄(スワヒリ文明)。 とくにキルワは美しい都市として有名だった。アラビアとの交易は 2000 年以上前から 始まっており、1200 年前ころにはアラビアから大規模な移住があり、周辺に同化。 内陸部からは黄金が輸出され、海外からは衣類用の綿布が輸入された。キルワの商人は この貿易の支配権を握っていた。16C 以降のポルトガルによる攻撃により、キルワは壊滅。 北部の都市はそれほどひどい攻撃を受けず、18C ころにはスワヒリ文学が生まれた。 なお、アラビア語も文章語としては広く使用されていた。
  8. 内陸部の諸王国(I):11-12C ころ、バントゥー系の人々がジンバブウェ地方に移住。 そのうちのロズウィ族(カランガ)が、1440 ころにモノモタパの帝国を建設。1485 ころ、 封臣のチャンガが、チャンガミールを建国(以後 3 世紀の間繁栄)。以後、 北部ジンバブウェ地方にはモノモタパ、南部ジンバブウェからモザンビックにかけて チャンガミールという構図ができる。モノモタパは 1682 にポルトガルに敗れる。 チャンガミールは、19 C はじめ、ングニ族とマタベレ族により滅ぼされ、かれらは さらにその後ヨーロッパ人に侵略される。
  9. 内陸部の諸王国(II):500 年前ころ、バチウェジ族がウガンダ地方に国家を建設。 その後、新しい種族が、ブニョロ・キタラの帝国、およびブガンダ王国を創設。 コンゴ盆地地域にはいくつかの部族国家があった。タンガニーカやケニアの内陸部には 小国がいくつかあったが、北からの侵入にさらされて不安定であった。
  10. 世界とのつながり:15 C はじめまで、すなわち大航海時代以前には3つの大きな 交通システムがあった。(1) サハラを横切って、地中海と西アフリカを結ぶ隊商路 (2) 東アフリカとインド洋沿岸を結ぶ航路 (3) アフリカ横断ルート
  11. ヨーロッパの到来:15C 中頃以降、ポルトガル人がアフリカの西を南下する航路を開拓。 1497-99 バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回り、インドまで航海。その後、スペイン、 イギリス、フランスが続いてゆく。
  12. 初期の協力関係:初期(16C はじめ)には、ヨーロッパとアフリカの関係は対等だった。 ところが奴隷貿易が始まりだして、秩序が崩壊し始めた。奴隷を売らないと、 ヨーロッパの火器が買えなくなり、他の奴隷貿易をやっている国に負けてしまう、 というのが、奴隷貿易が止まらなくなった理由。
  13. 奴隷貿易:17C になってアメリカ大陸で大農場経営が始まり、奴隷が必要になった。 ヨーロッパは、国内の安い工業製品をアフリカに売り、奴隷を買った。奴隷は アメリカ大陸で売られ、船長は砂糖やタバコを買った。ヨーロッパでは 砂糖やタバコが高く売れた。この三角貿易でヨーロッパは莫大な利益を得た。 同時に 18C 終わりまでには、英仏では産業革命が完了した。 19C 初めには、英仏では奴隷が必要なくなり廃止された。しかし、ポルトガルや アメリカ合衆国では引き続き奴隷が使われた。
  14. 侵入:19C は帝国主義の時代となり、ヨーロッパ各国がアフリカを侵略した。 1884-85 植民地会議によりアフリカの領有権が決まり、19 C 終わりまでころまでには 占領を完了した。
  15. 植民地体制:植民地でヨーロッパ各国は安い原料を手に入れた。暴力による 搾取が行われた。しかし、同時に近代的教育により、独立の思想が生まれてきた。
  16. 新しいアフリカにむかって:20C 半ばには独立運動が盛んになる。その結果、 アフリカ南部を除き、アフリカの大半が独立を勝ち得た。
  17. 達成と挑戦:独立後は、経済の発展をはじめ多くの課題がある。

この本は、未来への希望的観測が書かれているが、その後もアフリカは、 冷戦やグローバル化などに翻弄されつづけ、現在も貧困の中にある。 再起の道はどこにあるのか?