たとえば、論理学で良く使う and とか or とかいうものは、 なぜ論理学の形式になるのか?それは独立に存在しうるものなのか、 あるいは何かの形式なのか?
このような問題に対する答えは、哲学上の立場とは独立ではない。 哲学が異なれば論理学に対する見解が異なり、また、 論理学の結論は哲学を支えるために利用される。
私(Dewey)の立場:論理形式は、すべて探求の操作の中で生じ、 その操作が「保証付きの言明」を生むように探求を コントロールすることとかかわりがある。 探求ということを深く考えて行くと、論理形式が理解できる。 また、探求があるからこそ、論理形式が存在する。 つまり、論理形式 (logical form) の起源は、探求の方法にある。
私の立場に対する常識的な反論: 探求の方法(たとえば、科学の方法)においては、 「探求は論理的に正当でなければならない」という基準が 普通に使われる。だから、論理学は、探求の方法の 外側に別にあるべきではないのだろうか? ―これに対する反論こそ、本書全体のテーマである。
私は、探求とその手段とは、いわば「共進化」してきた と考えている。それは、たとえば、科学と技術の関係を見ると わかる。技術(探求)の進歩は科学(手段)の進歩に支えられて きたのは確かだが、その科学(手段)の価値は、利用されて 成功したかどうかが基準となって判断される。
探求は、疑念に始まり、その疑念が取り除かれることで終わる。
その状態は、ふつう、信念とか知識とかいう言葉で呼ばれる。
しかし、私はこれを「保証つきの
言明可能性 (warranted assertibility)」
という言葉で呼ぶ。信念という言葉は、主観的な意味もあるので
適切ではない。知識という言葉は、往々にして探求とは独立して
存在しうるものだと考えられるのでこれも適切ではない。
探求の結果は、固定したものではなく次の探求にさらされる。
そして、探求の結果は、その探求によってひとまずの正当性が保証される。
これが、「保証つきの言明可能性」という言葉を
使う意味である。
(吉田注)
このような考え方は、熊澤峰夫氏のいう「仮説転がし」だとか、
Popper のいう「科学の反証可能性」と、整合的である。
合理性とは、手段と結果の関係の問題である。良い結果を生む手段を 探し求めることは、合理的である。昔は、合理性を実体化して、 合理性によって真理を知る能力を理性と言った。しかし、このような 永遠の真理という考え方はすでに破綻している。
論理学のいわゆる第一原理(同一律、矛盾律、排他律など)に対しても 同様に議論できる。昔の考えでは、これらの原理は、探求の方法が変っても 永遠不変の真実だった。しかし、私の考えでは、これらは、うまくゆく 探求に含まれていることを確かめることができるような性質のひとつである。 それは、いつも必要なものであろうが、決してア・プリオリなものではない。 これは Peirce が言う習慣 (habit)のひとつである。 習慣は、はじめは無意識のうちに使われる。それが、あとになって意識されて、 あらゆる成功する推論に同じ習慣が含まれていることがわかり、それが 定式化されると原理 (principle)と 呼ばれるようになる。そのようなものは、特定のテーマと係わらないので、 形式的 (formal)である。原理は、それ以前の 探求の手法を検討することで得られるものだが、それ以後の研究に 関しては、操作の上でア・プリオリ (operationally a priori)である。
本章で述べたことの implications