デューイ「論理学」ノート

第2章 探求の現実的な基盤―生物学的な側面

2001/06/18
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2001/07/02
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本章の目的: 論理学が自然主義的である(naturalistic) ということを議論する。探求には生物学的な要素が不可欠であり、それらが 探求の中でどのように働いているかを見てゆく。

第一の仮設(前提):生物の下等な活動や形態と、高等な活動や形態とは 連続している。連続という意味は、下等なものと高等なものの断絶はないが、 かといって、高等なものを下等なものに還元できるわけではない、という 意味である。下等なものから高等なものが発達してきた道筋をたどることが できる、という意味である。われわれはア・プリオリな直感(a priori intuition)のような超自然的なものを拒否する。

有機体(生命)は環境と深く相互作用しており、両者は一体のものであると 言って良い。生命と環境とは持続的に維持され、個々の活動は次の活動への 道を開く。活動の諸要素は複雑なバランスを保っている。このバランスが 乱れると、欲求が出てきて、バランスを回復しようとして、追求や探求が 行われる。そして、バランスが回復されると、充足もしくは満足の状態になる。 たとえば、飢え→食物探求→食物獲得→満腹、といった具合いである。 しかし、とくに高等な活動においては、これは進化する過程である。 追求によって、環境が変化し、それに応じて有機体の状態も変化する。 そして、新しい要求が生じ、新しい追求が始まる。

通常の行動は、膝反射のような単純な「刺激→反応」の寄せ集めではない。 たとえば、餌の追跡においては、時々刻々変化する接触刺激や嗅覚刺激、 視覚刺激などが、生物の全身の状態によって統一され、行動の連鎖が生じる。 一連の行動が終わると、環境も有機体も変化する。有機体に起る変化は 習慣(habit)と呼ばれる。

習慣は、単なる繰り返しによって作られるものではない。習慣は、 探求あるいは追求活動がうまく終了したときに強められるような行動様式である。 そうして習慣が形成されるからこそ、繰り返しが可能になるのである。 習慣は、ある程度の柔軟性と適応性を持っており、環境の変化に対応できる。

本章の結論その1:探求を、ひとつの孤立した有機体(主体、自我、心)と 関係付けることができると考える考え方は誤っている。この誤った考え方から、 論理学と方法論が分けられるとする伝統的な考え方が生まれている。すなわち、 探求には、疑念、信念など心理的な要素が含まれており、それは論理学とは 無関係であるという考え方である。しかし、心理的な要素にも客観的な意味を 持たせることができる。なぜなら、有機体と環境とは密接に結び付いていて、 分けることはできないからだ。

この世界は、直接または間接に生命のはたらきの中にはいって初めて環境となる。 有機体自身は、より大きい自然の一部であり、環境との活発な結び付きにおいて 初めて有機体として存在する。

本章の結論その2:生命行動のパターンについての考察。

  1. 探求によって、周囲の状況は必ず変化する。
  2. 行動パターンは連鎖的(serial or sequential) である。とくに、人間には記憶があるので、行動の連鎖は長くなる。
  3. 探求を完成させるための連鎖する過程や操作は、 媒介的な(intermediate) 道具である(instrumental)。 推論や議論も同様である。このことは、後でより詳しく示す。
  4. 連鎖は基本的に重要である。探求は、新しい環境条件をつくり、それが また新しい問題をひきおこす。特定の問題が解決されると、新しい問題が 生まれる。このようにして、最終的な解決はない。哲学も、最終的な解決を 与えると考えた瞬間に、自己弁護もしくはプロパガンダとなる。
  5. 心理学と論理学の関係について
    1. 探求は有機体の探求の行動の一方式である。したがって、 心理学(心の世界)と認識論(物の世界)を分離するのは誤りである。
    2. 心理学は探求の特殊な一分野である。それは、探求の開始や遂行に 含まれる条件を探求することに係わる。

経験(experience)という言葉の意味を ここで考えてみる。「経験的」と「合理的」という言葉が対照的に使われる ことがある。この場合、「経験的」というのは、いわゆる職人芸のように、 原理の理解に基づかない、という意味で使われている。しかし科学においては、 事実の観察と原理の理解とに基づいて、結論を得るので、「経験」と「合理」 の対照は虚構のものである。しかし、不幸にして歴史的にはそのような対照が 行われてきた。「経験」に関する私の問題設定は次の通りである。

有機体の行動から、コントロールされた探求へと発達したものが、 観察的な操作と概念的な操作の分化と協調をもたらすということが どうして生じたか?
How does it come about that the development of organic behavior into controlled inquiry brings about the differentiation and cooperation of observational and conceptual operations?

最後に Peirce の可謬主義(fallibilism) について触れる。有機体は常に間違いを犯すものである。それは、手段は 現在のものであるのに対し、結果は未来のものだからだ。未来は、過去と 連続しているが、過去の単なる繰り返しではない。したがって、常に誤謬が 起こる。
(吉田注)可謬主義は、プラグマティズム に特徴的なものである。Popper 以後の科学哲学が持っている態度でもある。 ちなみに Popper の主著「科学的発見の論理」は 1934 年に発行され、 この「論理学」は 1938 年に発行された。もちろん Peirce はそれより前 19 世紀に可謬主義を述べた。

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