デューイ「論理学」ノート

第4章 常識と科学

2001/09/11
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2001/09/12
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生物は周りの状況に反応して、自分や周りを変えてゆき、周囲に適応する。 人間の場合は、とくに文化的な条件がその過程に関わっている。 たとえば、鉱物の持つ意義は、農夫に対してよりも、 鉄を使うことを知っている集団に対しての方が多い。

ここで、探究の二つの種類を区別することにする。

常識 (common sense) には二つの意味がある。

2つの意味は明らかに違うが、いずれにしても、現実的な環境の中で 生きていくための知恵であるということは共通している。

常識による探究とその結果を 利用と享受 (use and enjoyment) という言葉で呼ぶ。 常識は質的 (qualitative)である。 たとえば、食べられるものと毒があるもの、身分の上下などである。 常識は文化に依存する。たとえば、狩りはかつて仕事であったが、今や スポーツである。

科学は、これに対し、質的ではなく主として量的である。 常識と科学の違いは、かつては認識論や形而上学の問題とされたが、 私は、これは論理学の問題であると言う。常識と科学とは問題の 種類が違う。したがって、探究の強調点が違い、対象の論理形式が異なる。 問題は、実際的に利用し享受するためのテーマと、科学的な結論を出すための テーマの間の関係である。後に説明することの結論をここで挙げる。

  1. 科学のテーマは、常識(実際的な利用と享受)の問題と方法から生じ、
  2. 常識の支配していた内容と作用を極度に洗練し、拡げ、自由にするような仕方で、 常識にはたらきかける。

状況 (situation) という言葉の説明から 始める。状況は、単一の対象や出来事ではなく、一連の対象や出来事でもない。 対象や出来事を切り離して経験したり判断したりすることはできない。 つながりのある全体が「状況」である。対象や出来事は常に状況の一部である。 対象や出来事は状況のなかで利用され、その状況にふさわしいだけ享受される。 状況はひとつの全体 (a whole)である。 状況と関連しない議論は無意味である。 状況は感じられるものである。といって、心的なものではない。心的なものは、 状況全体によって確認され記述されなければならない。
(吉田注)このあたり、 知識に関するシステム論的というか全体論的な色合いが見られる。

経験の領域は、論議の領域の前提条件である。経験がなければ、議論の結果の 重要性、適切性、首尾一貫性などがわからない。誰も、ひとつの状況の中に いないわけにはゆかない。状況の中にいないということは、経験をしないことに 等しい。ある特定の状況にあることを否定したところで、別の状況が とりまくことになるだけのことである。言い替えると、議論によって、 経験の領域が存在することを証明することはできない。しかし、状況の 存在が、論議をとりまきコントロールする状況であることを、 理解させる状況を経験させることはできる。

たとえば、美的な経験を考える。たとえば、ある絵がレンブラント風だと 言うとき、それは特定の線や色を指しているのではなく、絵のあらゆる 要素とその間の関係に影響を与えている何ものかである。それは、ことばで 表現することはできず、感じられるだけである。それは、経験の背後に 状況があり、経験をコントロールしているからだ。

ある観察をするとする。このとき事実だけを集めても何も出てこない。 逆に、固定した概念や理論の枠組みで物事を見ると、重要な事柄を 見逃してしまうかもしれない。こうした欠点から逃れるためには、 状況に敏感でなければならない。問題を感じなければならない。
(吉田注)このように、論理だけで ない面があることが、プラグマティズムをすたれさせた原因では ないかと思うが、同時にこういう部分も捨て難いような気がする。 脳の意識下のはたらきによって意味付けが可能かもしれない。 普通の科学哲学では、観察は理論に依存し、理論から逃れられない、 とする立場をとる。

科学の出発点は常識的世界である。たとえば、色や光は、常識の段階では 集団の行う仕事や美術や社会的な礼法のなかで、経験され判断される。 科学の段階になると、色や光は、それだけで切り離される。

常識と科学、実践と理論などの二元論的な分離は、歴史を古くさかのぼる。 アッシリア、バビロニア、エジプトの文化では、「低い」技術と「高い」技術の 2種類の知識が分離された。低い技術は、大工、染めもの、機織りなど 日常の実際的な仕事で、高い技術は特権階級や僧侶や医者などが 受け持つものである。高い技術は、神と関係するような者たち、高い社会的地位を もつ者のものであった。ギリシャにおいては、科学と哲学に高い価値がおかれ、、 実践の拘束を受けないゆえに「純粋」とされた。実際的なものは卑しいとされた。 これは、奴隷と有閑階級の間の社会的な区別が、哲学的定式化に置き換えられた ものである。以上のように、常識と科学の二元論的分離は、社会的、文化的な 起源をもっている。

後世になって、科学は経験と深く結び付くことで蘇った。理論と実践という 古い区別は取り壊された。その結果として、常識の内容と技術が革新された。

しかし、常識と科学の間にはまだ不統一があり、次のような二つの対立がある。

  1. 常識は質的な分野にかかわり、科学は量などの数学的関係によって 題材を述べなければならない。
  2. 常識は、利用と享受の問題にかかわるから合目的的である。 これに対して科学は、目的を取り除き、量的変化によって進歩した。
    (吉田注)このあたり、 和訳がおかしいところがあると思うが、はっきりしない。 上は私の解釈に基づく。
しかし、以上のような違いは探究方式の違いの問題であり、テーマの違いではない。
  1. 科学のシンボル群は常識に組み込まれなかった。また、道徳や政治や人間に 関する問題に関しては、さらに科学は影響を与えなかった。 このような分野においては、近代以前の信念、概念、慣習、制度に いまだに支配されている。科学は常識から出発したが、常識にはなかなか 戻れないでいる。ある思想学派は、価値や理想の領域を科学から引き離すことに 没頭している。
  2. 科学は、目的に無関心であるといいながら、科学は、常識のもつ目的の 範囲を拡げた。古代においては、目的は、事物の本性によって固定されたもの であった。しかし、科学と技術によって、目的の範囲は爆発的に拡大した。
そこで、次の問題意識をもって、論理学を考えてゆきたい。
  1. 現代において、常識は、2つに分裂している。一つは古くからの 規範的な意味と手続きであり、もうひとつは科学から派生した部分である。 これらを統一するためには、統一された論理学、すなわち探究の方法が 不可欠である。
  2. 現代の論理学は、探究の論理学ではない。伝統的論理学か、記号論理学かである。 科学的探究の方法として役に立つ論理学が必要である。

次章では、アリストテレスに由来する伝統的論理学を扱う。当時の学問状況は 今と違いすぎるので、現在では、元の知識の論理学という意味が消えてしまった ことを示す。そこで、科学の方法に基づく論理学が必要になることがわかる。

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