ここで、自然 (Nature)ということばの ギリシャにおける意味を考えてみよう。それには2つの意味がある。 ひとつはピュシス (Phusis)で、 これは語源である「成長する」といういみと関係がある。 すなわちこれは変化である。これの形容詞形は 自然的 (physical)であり、 アリストテレスも自然の変化する面を指してこの語を用いている。 もう一つの意味は本性 (nature)である。 「本性」は不変の実体からなる。不変なものと変化するものとの関係と区別が 哲学の究極の課題であった。
このことはアリストテレスの論理学とも関係する。 彼の論理学は形式的ではあったが、それはあくまでも 真に存在するもの(変化しないもの)の形式である。
主観 (subject)と 客観 (object)という言葉の意味は、 かつて逆であった。今日の対象 (object)は、 ギリシャ哲学では主題 (subject)である。 ギリシャ哲学においては、知識の主題 (subject) たりうるものは、 不変なものでなければならない。 真に存在するものは変化できない。変化するものは、不完全で 知的に理解できない。変化は、一定の限界の中に閉じ込められたときのみ 知られうる。
三段論法は包摂と排除の関係である。三段論法にも2通りある。 一つは、永遠なものが対象となっている場合で、この場合、 知識は合理的である。もうひとつは、変化するものが対象に なっている場合で、この知識は偶然的である。
定義は、ものの本質が持つ形式である。それは便宜的なものではなく、 本質の認識的な把握である。定義は、それを他の全てのものから選り分け、 その永遠の不変の姿を把握するものである。
種には階級がある。不変なものは高級で、変化するものは低級である。 最高の階級の代表例は星である。生物の階級の最高のものは人間である。 とくに、純粋に理性に従うとき、人間は完全となる。
以上のように、アリストテレスの論理学にはいくつかの重要な点がある。
アリストテレスの言葉に次のようなものがある。感覚的なものは 我々との関わりの中で良く知られる。理性の対象はそれ自体の中で良く知られる。 この言葉を考えるときには、次のことに注意すれば良い。 英語の know や note は同語源で、ギリシャ語の gignoskai、ラテン語の gnoscere から来ている。つまり、知ることは注目することである。 そこで、アリストテレスの「知る」を「注目する」に置き換えれば分かりやすい。
そこで、アリストテレスの自然観と近代的な自然観の根本的な違いを まとめることにしよう。
以上のように、アリストテレスの論理学は当時の知的状況に対応するもの であったが、現代の知識状況には適さない。昔の形式が残っている例を一つ挙げる。 古典的論理学で、全称命題(∀)と特称命題(∃)の持つ意味は明確である。 全称命題は、種という現実的な全体に関わる。特称命題は、変化する 不完全なものに関わる。一方、現代論理学においては、全称命題や必然的命題は、 存在と関わりがなく、存在と関わりがあるものは、 単称命題もしくは個別命題である。これが悪いわけではないが、 古典的論理学と考え方に断絶があることは意識しなければならない。
古典的な科学は、常識で確立されたものを受け入れ、それを 高度に定式化することであった。常識文化は、美的、芸術的な カテゴリーによって支配されていた。
近代の科学は、常識を組織化したものではない。 論理学は、常識の分野においても科学の分野においても使えるような 統一的な探究の方法であるべきだ。