デューイ「論理学」ノート

第5章 論理学に必要な改革

2001/10/23
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2001/10/27
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論理学は、現代においてもアリストテレス論理学が基盤になっている。 しかし、これはまずい。それは、当時と現代とでは、学問や文化の状況が 全く異なっているからである。

ここで、自然 (Nature)ということばの ギリシャにおける意味を考えてみよう。それには2つの意味がある。 ひとつはピュシス (Phusis)で、 これは語源である「成長する」といういみと関係がある。 すなわちこれは変化である。これの形容詞形は 自然的 (physical)であり、 アリストテレスも自然の変化する面を指してこの語を用いている。 もう一つの意味は本性 (nature)である。 「本性」は不変の実体からなる。不変なものと変化するものとの関係と区別が 哲学の究極の課題であった。

このことはアリストテレスの論理学とも関係する。 彼の論理学は形式的ではあったが、それはあくまでも 真に存在するもの(変化しないもの)の形式である。

主観 (subject)客観 (object)という言葉の意味は、 かつて逆であった。今日の対象 (object)は、 ギリシャ哲学では主題 (subject)である。 ギリシャ哲学においては、知識の主題 (subject) たりうるものは、 不変なものでなければならない。 真に存在するものは変化できない。変化するものは、不完全で 知的に理解できない。変化は、一定の限界の中に閉じ込められたときのみ 知られうる。

三段論法は包摂と排除の関係である。三段論法にも2通りある。 一つは、永遠なものが対象となっている場合で、この場合、 知識は合理的である。もうひとつは、変化するものが対象に なっている場合で、この知識は偶然的である。

定義は、ものの本質が持つ形式である。それは便宜的なものではなく、 本質の認識的な把握である。定義は、それを他の全てのものから選り分け、 その永遠の不変の姿を把握するものである。

種には階級がある。不変なものは高級で、変化するものは低級である。 最高の階級の代表例は星である。生物の階級の最高のものは人間である。 とくに、純粋に理性に従うとき、人間は完全となる。

以上のように、アリストテレスの論理学にはいくつかの重要な点がある。

  1. 形式は単なる形式ではなく、知識の主題になりうるものの形式である。
  2. 知識の論理形式は、定義と分類から成り立つ。定義は、ものの本質の把握である。 分類は、実際に存在する種の包摂と排除の関係を示す。
  3. 発見や発明ということはあり得ない。すでにある本質と種を理解することが 知の目的である。
アリストテレス論理学における三段論法は、推理や推論の形式ではなく、 包摂と排除関係の理解であった。科学が本質や種という概念を破壊したとき、 論理学は形式的なものになった。古典的には、知識は、把握であり洞察である。

アリストテレスの言葉に次のようなものがある。感覚的なものは 我々との関わりの中で良く知られる。理性の対象はそれ自体の中で良く知られる。 この言葉を考えるときには、次のことに注意すれば良い。 英語の know や note は同語源で、ギリシャ語の gignoskai、ラテン語の gnoscere から来ている。つまり、知ることは注目することである。 そこで、アリストテレスの「知る」を「注目する」に置き換えれば分かりやすい。

そこで、アリストテレスの自然観と近代的な自然観の根本的な違いを まとめることにしよう。

  1. 古典的には、量は偶有性(たまたまそうである性質)に関することであり、 その理解は本質的ではなく学問ではないとされた。ところが、近代では 計量が非常に大きな意味を持つ。
  2. 現代では、運動は計量的に区別される同質のものである。しかし、古典的には、 たとえば上下運動と前後運動は質的に区別されるものである。運動は、本来 静止の状態に向かうものとされた。
  3. 古典的には、関係も偶然的なものとされ、学問の対象とは認められなかった。 種の包摂と排除は関係であるとは考えられなかった。現代論理学では、 関係を扱っているが、もともと異質なものに対する接ぎ木状態である。
  4. アリストテレス論理学は、目的論が中心である。
  5. 種概念は進化論によって完全に打ち砕かれた。その結果、論理学はまさに 因襲的な形式のみになった。
  6. ギリシャにおいて、自然とは、完成された全体であった。知識とは、 本質によって定義された種を、他の種と関連づけて全体の中に位置づけること、 であった。

    以上のように、アリストテレスの論理学は当時の知的状況に対応するもの であったが、現代の知識状況には適さない。昔の形式が残っている例を一つ挙げる。 古典的論理学で、全称命題(∀)と特称命題(∃)の持つ意味は明確である。 全称命題は、種という現実的な全体に関わる。特称命題は、変化する 不完全なものに関わる。一方、現代論理学においては、全称命題や必然的命題は、 存在と関わりがなく、存在と関わりがあるものは、 単称命題もしくは個別命題である。これが悪いわけではないが、 古典的論理学と考え方に断絶があることは意識しなければならない。

    古典的な科学は、常識で確立されたものを受け入れ、それを 高度に定式化することであった。常識文化は、美的、芸術的な カテゴリーによって支配されていた。

    1. 実体のカテゴリーは、事物が安定した形で世界に存在するという考えの 反映である。
    2. 固定した種というカテゴリーは、自然の中に存在する種を常識的に信じること からきている。
    3. 常識は、価値によって支配されている。高低、優劣、貴賤の区別などは 常識の構成要素である。しかし、ギリシャの哲学は、この価値の組み替えも ある程度行っている。

    近代の科学は、常識を組織化したものではない。 論理学は、常識の分野においても科学の分野においても使えるような 統一的な探究の方法であるべきだ。

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