淋しき越山会の女王 他6編

児玉隆也著
岩波現代文庫 社会31、岩波書店
刊行:2001/02/16
名古屋鶴舞の古本屋で購入
読了日:2002/03/19

文藝春秋などに掲載された以下のルポルタージュをまとめたもの。 著者は、センチメンタルというかウエットなルポが身上である。 取材対象への感情移入が感じられ、そこが魅力。

(KM) は、苦労して生活した著者の母の思い出。

(SE) は、田中角栄の「奥の院」の「金庫番」であった、佐藤昭(佐藤ママ)の これまでの人生を調べたルポ。家族を次々に失い孤児であった彼女が、田中角栄の 奥の院に入って、どういうわけか多くの財産と強大な権力を持つようになって いったことを描く。この著者の特質は、たとえば、最後の方で、

彼女にはもう一つ好きな唄がある。
アカシヤの 雨にうたれて
このまま 死んでしまいたい
(中略)
旧友は、そういう一面を知っているだけに、何億という財産と阿諛追従に囲まれた 彼女を、決して幸せだと思っていない。
などと感傷的に書くところにある。

(CN) は、「チッソだけが、なぜ患者の前で土下座をしなければならなかったか?」 という疑問を掘り下げたもの。チッソの前身の日窒コンツェルン時代からの 身分差別の社風を戦後に引き摺っていたことが原因であるということを暴いている。

(WT) は、昭和16年11月の「気比丸」沈没の際の弘津青年の二つの美談をめぐるルポ。 ことの真相は最後まではっきりとはしないのだが、にもかかわらず、 その時代背景やそれをめぐる人々の感情を描いて読ませるのが、この著者の特質。

美談には、国籍がある―

(DS) は、「同期の桜」の作詞者に関して。これは、西条八十の「二輪の桜」が 下敷になっていることは知られているが、「同期の桜」自体の作詞者が誰かは 良く分かっていない。ここでは、岡村(槙)幸氏と帖佐裕氏の二人を候補とし 両氏に取材をしている。両氏とも自ら名乗り出ようとはしていない。著者は どちらも真の作者であると考えている。

別の人格がまったく同じような語彙を使って...という疑問があるとすれば、 それは「あの時代」の「海軍」の「青年の心情」が、「どう生きるか」よりも 「どう死ぬか」という日常から拾いだしたことばというものは、常に「常套句」 なのだと、私は考えている。

(GS) は、昭和18年の学徒出陣の壮行会をめぐるさまざまの回想を取材した記録。 そのうちの一つは以下のようなもの。出陣学徒総代だった人の回想の部分。

「たとえぼくがどんなことをしゃべっても本心ではないんですよ」
...そうでしょう。人間というものは生きている以上は何をしたってよく 思われたいという思いを持つものでしょう。意識のどこかのかけらに、 過去を美化したり脚色したりされたりしてくるものなんです。そうじゃ ありませんか?だから、ぼくの語ることばで評価するよりも、当時の資料に 語らせてください。ぼくは三十年前の気持を持ち続けられない。三十年前の 気持をもち続けていたら生きていけない。

(GB) は、著者自身の肺癌の闘病録。患者の気持ちが正直に書かれていて 胸を打つ。