立花隆「嘘八百」の研究

別冊宝島 Real 027
刊行:2002/02/07
三洋堂書店杁中本店で購入
読了日:2002/03/04
立花隆を批判する以下の論説集のまとめ。全体の質は宝島らしくまちまち。 最近、立花隆批判がいくつか出版されたが、「知の巨人」などという 大げさな名前を付けられたのがその原因だろう。初めからそれほど 買いかぶらなければ問題はなく、立花隆が優秀なジャーナリストの一人で あることに間違いはないだろう。「知の巨人」というには遠いにしても。 以下の論説にも、立花は「知の巨人」ではない、と言っているのに近い 批判が多い。それは、最初からそうでないと思えば、何も問題では ないことである。問題なのは、立花に匹敵する個性を持ったジャーナリストが 他にいないことの方で、だから無闇に「知の巨人」などと持ち上げられる ことになる。
  1. 教養の「敵」
  2. ジャーナリスト失格!
  3. 科学憑き、宇宙憑き
  4. 伝説のオシマイ

(AM) は、ものの見方の立場が立花と自分とで違っていると言っているだけで 批判になっていないように思える。それは最後の方で (AM) が述べていることを 見ると分かる。それを引用すると

もしも、現象学から記号論までの20世紀思想、すなわち、人類の知そのものの 限界づけに挑む現代の認識論の側から「教養」について考えられたならば、 こうした愚は避けられたのではないか。

そうした思想の説くところを参考に、世界とか事実とか本質とかもまた、人間が 言語に制約されたその知によって構成したものであると考えたとき、「知」は 共同的な創造の営みという色彩を放ち始め、「教養」は我々がよりよく生きるための 物語という性質を帯びてくる。

(AM) は、自分が20世紀思想に通じているからエライと言いたいらしい。 20世紀哲学的な語り口で語ったものでないと価値を認めないということか。 20世紀哲学といっても立場はさまざまだから、認識論もひとくくりには できないはずなのに。自然科学と相性の良い認識論も存在する。

(KN) も、自分と立花の見方が違うと言っているだけのようである。 (KN) が「(立花は)よりマクロな視野に基づいた政治分析を 十全には展開せず」と言っているのは正しいが、しかし それは政治学者なり (KN) なり別の人の仕事で、立花のように 汚職批判を中心に据える批評家は、それはそれで役割を 果たしていると思う。

(NH) は、これはようやく批判である。とくに、オウム事件に関して、 立花が「週刊文春」に発表した記事とテレビ番組「ニュース23」の 対談の内容に関する批判である。(NH) 氏は、公安調査庁に4年いた ことがあり、立花の「公安」(公安調査庁、公安警察)に対する 認識や推測が誤りだらけだという。私には当否はわからないが、 週刊紙の記事くらいだと、立花隆の取材不足ということは十分に あり得るだろう。

(OI) も、自分と立花の考え方の違いを述べているに過ぎない。 (OI) によると、立花のように人間の死を生物学的に考えるのは 単純すぎるのであって、

人間の死の瞬間とは、可能なかぎり厳密な医学的判断に基づいて 生理学的な死が確認されたことを前提として、当人の家族または それに準ずる近しい間柄にある人々が、その事実を承認する態度を 示した時点を持って原則とすべきである
のだそうな。(OI) は、自分の方が哲学的であって高度だと言いたいようだが、 そんなに高度な思想の持ち主かどうか疑いたくなるような記述もある。
キリスト教的な自然観は、ヨーロッパ中世の「神」の秩序観念の衰微に 成り代わって、自然科学的世界像を生み出し、西欧近代の繁栄を生み出す 要因の一つとなった。
そんなに簡単にキリスト教と自然科学を結び付けて良いとは思えないのだが。

(AK1) では、立花の「臨死体験」や「宇宙からの帰還」などをバカにしている のだが、本人が何を言いたいのかよくわからない。単にバカにしたいだけのようだ。

(YH) では、立花のインターネットに関する言説が、アルビン・トフラーの 「第三の波」のパクリであると述べている。とくに「第三の波」の 大袈裟な部分を引用して(たしかに引用された部分は扇動的で嫌ったらしい)、 立花も同類であると言っている。それでいてトフラーを引用してさえいないのは おかしいと言っている。私は両方を読んでいないので、これ以上論評できない。

(AK2) では、立花の書いたものをいろいろ批判しているらしいが、 (AK1) と同様、本人が結局何を言いたいのかよくわからない。

(MT) は、立花が「徹底した「近代主義者」」である、という分析を 述べたもの。この分析はそれなりに面白い。

第3部の「科学憑き、宇宙憑き」の部分は科学ジャーナリストとしての 立花隆を批判しているもの。これにはいくつかのパターンがある。 (1) 誤った知識を伝えている。(2) 知識の一面しか伝えていない。 (3) 科学の負の面を伝えていない。これらの批判は当たっていることが 多いものの、それがどの程度批判されるべきものかは、程度問題である。 これだけ広く科学を報じてくれるジャーナリストは他にほとんどいないので、 多少のアラには目をつぶっても、広い目で見たときにどう見てくれているか、 を読むのが、立花を読む読み方のはずで、アラが無いことを求めると、 このような広い取材は不可能になるだろう。高名な科学者の書いたものでも、 ちょっと専門外のことだと間違ったことを書いている例を私はたくさん 知っているので、ある程度の間違いはつきものだと思っている。 間違いのないものを読もうと思ったら、当然のことながら本当の専門家の 書いたものを読むべきである(これを見分けるのは結構大変だが)。 科学の語り部となってくれるジャーナリストはどうしても必要だと思うので、 立花氏にこれからもご活躍いただき、なおかつレベルを上げていただくのに 適当なだけの批判があるのが正しい姿であろう。多少の間違いは仕方ないが、 有害であると困る、というのが一つの基準であろう。

(SS) は、立花は物理がわかっていないという批判。これはそうでしょうねえ。 文系出身で数式に弱いとそりゃどうしても限界があるだろうと思う。 立花は速読家らしいが、物理の本は速読ではどうしても身に付かないだろう。 とはいえ、物理を多少間違って伝えてもそれほど有害なことは起こらないと 思うので、私としては、まあ許すというところ。

(KJ1) は、これを読む限り、的確で重要な批判のようである。 立花がバイオテクノロジーの負の面を捉えていないということ。 たとえば、立花は遺伝子組み替え食品を安全だと書いているが、 実はそうではないという。安全だと言いきるのは有害なので、 これは確かに問題。

(KJ2) は、環境ホルモンに関して、立花が粗雑な議論をして いることを指摘している。こういう問題は複雑な要因がからむから、 きちんと議論をしようと思ったら、統計データなどを扱わねばならず、 立花流のやり方には不向きなのだろう。ただ、 環境ホルモンに対して危機意識を煽った功績をどう見るか、 というところだが、(KJ2) ではそれに触れていない。

(ST) では、脳などに関する立花の議論の粗雑さを指摘し、 最後には、立花を素朴実在論者として批判する。 立花が自身を素朴実在論者だと思っているかどうか、 尋ねたいところではある。

(AK) では、立花が宇宙技術の負の面を書いていないと批判する。 前半は、立花の宇宙技術に対する理解が浅いという批判。これは これを読む限りその通りなのだろう。後半は、宇宙開発の軍事性を きちんと見ていないという批判。これはジャーナリストとしては いろいろな立場があり得るので、批判というより単に立場の違いと いうべきであろう。科学面を強調したジャーナリズムも 軍事とのつながりを強調したジャーナリズムも両方必要で、 ひとりの人が全部やる必要もないことである。

(TT) では、立花が、現代の科学論の持っている批判的客観的姿勢を 欠いており、19世紀的科学万能主義に立っているという。 その通りであろうが、立花に現代の科学論に立脚して欲しいとも 思わない。それは科学論の専門家がやれば良いことである。

(AT) は、どのような経緯で、立花が「知の巨人」などと 言われるようになったかという分析。