これで古典がよくわかる

橋本治著
ちくま文庫 は 6 8, 筑摩書房
刊行:2001/12/10
文庫の元になったもの:1997/11 ごま書房刊
名大生協で購入
読了日:2003/06/21

久しぶりに柔らかめの本を読もうと思って買ったら、予想通り(?) 買った翌日には全部読めてしまった。著者独特のわかりやすさで、 古典というものがなぜわかりにくいか、しかしどのように 古典に親しむべきか、ということが書いてある。

著者の書き方で、日本の古典の歴史をまとめると次のようになる。 平安時代までは、日本の文章には、「漢文」と「漢字だけの万葉 仮名の文章」と「ひらがなだけの文章」しかない。つまり、現在 使われているような「漢字+ひらがな」の文章がない。だから 分かりにくいのは当たり前だ。「源氏物語」もひらがなばかりの文で、 複雑な少女マンガのようなものだ。当然、分かりにくい。 鎌倉時代、「徒然草」や「平家物語」によってはじめて 「漢字+ひらがな」の日本語の文章が登場する。これらは「わかる」古典だ。 日本の古典というと平安文学を中心に考える人が多いが、これは 明治政府の復古趣味に毒されているせいだ。

枕草子を桃尻語訳した著者だけあって、古典を現代語訳して みせているところは実に卓抜である。たとえば、 「徒然草」の冒頭は(著者は「絵本徒然草」という「徒然草」の現代語訳を 既に出しているのだが)、

原文:つれづれなるままに日くらし硯に向かひて、心にうつりゆく よしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ

橋本訳:退屈でしょうがないから、一日中硯に向かって、心に浮かんでくる どうでもいいことをタラタラと書きつけていると、へんてこりんな感じが ホントにアブナイんだよなァ

となる。「アブナイ」なんてところが良い。 著者によると、源実朝も「アブナイ」。 有名な
大海の磯もとどろに寄する波
破(わ)れて砕けて裂けて散るかも
問題は「波」です。「破れて」「砕けて」「裂けて」「散る」です。 こんなにごてーねーな「波の表現」って、ありますかね?なんか 「アブナイ」って感じ、しませんか?(中略)実朝のいた”環境” というのを考えてください。ずいぶんストレスがたまりそうな世界ですよね。 (中略)実はこの歌、「大海原の光景」を歌ったものであると同時に、 彼の中にある「絶望的な心情」がそのまま歌になってしまったものなんです。
なのだそうである。
ところで、本文中で解説されている実朝の歌で、本によって解釈が まちまちなのを見つけて驚いた。それは以下の歌である。
はかなくて今宵あけなばゆく年の
思ひ出もなき春にやあはなむ
とくにこの最後の「春にやあはなむ」が曲者である。「なむ」が 未然形についているので、願望(「〜であってほしい」 という他に対する望み)の終助詞と見るのが文法的には正しそうだが、 ちょっとそれでは意味が通じにくい。で、本当は「あひなむ」 だろうと勝手に解釈すると、「なむ」は完了の助動詞「ぬ」の未然形 と推量・意志の助動詞「む」だろうということになって、 「きっと〜してしまうだろう」とか「まさに〜してしまおう」とか ということになる。で、そこがとくに困るところのようだ。

まず、橋本訳では

今夜が明けたら新年だ。今年一年何の思い出もなかった。「何の思い出も なかったな」と考える新年が来るんだな。
ということで、「なむ」は推量になっており、全体は「孤独なおたく青年の歌」 と解釈されている。

次に、樋口芳麻呂校注「新潮日本古典集成 金槐和歌集」(1981 新潮社)では

あえなく夜が明けてしまったら 去って行った年の思い出を何も留めていない春に会うことになるのだろうか (旧年との別れを惜しむ気持ちから、新年になって旧年のことを忘れ去ってしまう 軽薄さをうとましく思っている)
ということで、「なむ」は推量になっており、全体は懐旧的かつ感傷的に 解釈されている。

また、小島吉雄校注「日本古典文学大系 29 山家集・金槐和歌集」(1961 岩波書店)では、「なむ」を額面通り願望に訳し(ただし他に対する願望ではなく 自分の願望としている)、

今宵一夜が明けたならば、年の暮れの思い出を持たない新春にでも 出会いたいものである
ということになっている。悪い思い出を忘れたいということなら、 悩める青年がすっきりしたいと思っている、ということになる。

ついでに、 「五七五七七ネットワーク」という web page の解説 では

誰が春の思い出などと同じことを延々といつまでくりかえすつもりなのだ? 春に一体何があるというのかよくよく考えてみるがいい
この夜が明けたならまた憂鬱な春がやってくる。思い出など消えろ!
だそうで、上と似ているが、ずいぶん趣きが違って、 憂愁の詩人という感じになっている。これも「なむ」は願望。

私がその後考えてみた感じでは、おそらく3番目の小島校注のものが 正解だと思う。「あふ」は、昔は、先方を主語にして 使われたものだそうなので(広辞苑)、「(向こうから)たまたま やってくる」という感じの単語のようである。だから、文法通り 「〜であってほしい」と訳すことができる。たとえば、

ちりちらず聞かまほしきをふるさとの
花見て帰る人もあはなむ(拾遺49 伊勢)
というのが歌があって、「古里の花が散っているかどうかを知りたいので 花見から帰ってくる人がやって来てほしいなあ」という 意味だそうである。そう考えると、実朝の方も
今夜があっさり明けて、前の年の嫌な思い出が消えちゃうような 新年がやって来てほしいなあ
というふうに読むのが妥当だと思う。実朝君にとっては きっと嫌な一年だったのでしょう、たぶん。
これも実朝の歌だが、ミスプリ発見。本書では
わが宿の梅の初花咲きにけり
待つ鶯はなどか来鳴
とあるが、
わが宿の梅の初花咲きにけり
待つ鶯はなどか来鳴
が正しい(文法上もそうでないとおかしい)。