特集 橋本治がとことん語るニッポンの縄文派と弥生派

芸術新潮 2003 年 10 月号
新潮社
名大生協で購入
読了日:2003/10/08
奇才橋本治が日本美術を、縄文派 vs 弥生派という対立軸を設定して お気楽に語るという趣向で、お気楽に楽しめる。縄文=芸術、 弥生=生活、であるとして、日本美術は縄文を弥生に同化していく というふうに運動してきた、と説く。ただし、現代は縄文が大手を 振って歩く時代である。
日本の美術は全部、生活に密着しているんだよね。(中略) ところが西洋の美術は、生活から生まれたものじゃなくて、 結局は神のイデアや権力者のロゴスに奉仕するものだったりするわけじゃん。 日本にはそんなイデアやロゴスなんてなくて、生活の中にぴたりと はまっちゃって、「ああ、いいものですね」という収まり方をしてしまう。

いわゆるわびさびは、したがって、当然弥生系。光悦の「白楽茶碗 銘不二山」を評して、

「いい」という宇宙の中にそのままいるようで、別になにかを言う 必要がないのである。平安時代に完成されて、ある部分では「うるささ」 さえ持つようになってしまった弥生の生活文化から、煩わしいものを 全部そぎ落として「生活=思想=宇宙」というところにまで行ってしまった。

弥生対縄文では、たとえば、宗達と光琳。宗達が弥生で、光琳が縄文。

宗達の絵は、もちろん弥生である。なんのへんてつもない。自己主張もしない。 でも、絵だと思ってみると、「すごくいい」という感じが自然と湧いてくる。 一方の光琳の絵には、苦労がある。水の表現や、梅の枝の技巧や。 「いい絵だな」と思うと同時に、「なにか考えなきゃいけないんじゃないか」 という気にもなる。頭で反応しちゃうところが、縄文だなとも思う。
「芸術は爆発」の岡本太郎が、縄文や光琳を高く評価して、宗達を 評価しないのを思い出した。根っから芸術で縄文な岡本太郎には、 生活の弥生は受け入れられないのだろう。

あるいは、岡本太郎が、ヴェルサイユ宮殿の猿まねであるとして 拒絶していた迎賓館。

すごいのは、ヴェルサイユ宮殿を自分達の生活のフォーマット ―弥生ととらえて、そこに日本やエジプトという異物を取り込んじゃってる とこなんだ。