いろいろ気の利いたちょっとした考察を交えているところが面白い。 最終回にでてきた例を挙げる。5年くらい前、「シャイン」という 映画のおかげで、デヴィッド・ヘルフゴットが大人気となったことがあった。 むろん、彼はピアニストとしてはまるでだめだったが、人間ドラマという 「プラスアルファ」の部分で人々に感動を与えた。
成熟した社会では、伝統的クラシック音楽における「ただの名演」に 飽きてしまったのではないか。「名演」にもさまざまありますが、その 「名演」の「さまざまの意匠」にすら飽きて、ひたすら求める「プラス アルファ」は「人間のドラマ」であり、感動を呼ぶ「人生」そのもの となってきたのではないか。この手のことは、ちょっと別の意味で科学者にも当てはまる。 科学者も、一人前になるにはけっこう人生の莫大の時間とエネルギーを かけているのだけど、世の中の科学に対する理解は下がってゆく一方なわけで、 高度な技術が生活の中に入り込むほどその乖離が甚だしくなってゆくという アイロニー。(中略)
勿論、そんな「プラスアルファ」による感動なんて本当の音楽的感動ではない、 と否定することもできましょう。
(中略)でも(中略)
「折にふれなば何事かこころ動かさざらん」感動というものは基本的に たいへん複雑で多様なもので、単純にホンモノニセモノなどと言うべき ものでもありません。特にこの二十一世紀の豊かな社会では、さまざまな メディアの力によって、芸術の世界でも多彩な「プラスアルファ」の 演出が行われ、その感動も多様化しています。ここで、その音楽的素養や 知識によって音楽的感動のホンモノニセモノといった差別をするのは、 時にクラシック音楽ファン独特の「オゴリ」とでもいいましょうか、例の 教養主義的な独善となる危険をはらんでいるのではないでしょうか。
(中略)
ただ問題は、こういった社会の変化が、若いピアニストたち、これから コンクールにも参加しようとしている若者たちにもたらす影響です。 さっき「ただの名演」などといいましたが、その「ただの名演」を 目指して、ピアニストたちがその人生においていかに莫大な時間とエネルギーを、 そして夢と情熱をかけていることか。