岡本「異議あり!生命・環境倫理学」ノート
- 2003/02/23
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- 2003/02/26
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第1章 中絶はいかにして可能か
中絶を正当化する論理はあるか?中絶は殺人だとして反対する人は多い。
- 1. 自分の身体は自分のもの
- トムソンの議論
- 胎児が人間であっても、女性の自己決定権のほうが重要。
胎児が母親の意思によって妊娠したのでない限り、
胎児には母親の身体を使用する権利はない。
トムソンの中絶擁護は限定的なものであり、レイプなどによる場合と、
母胎に危険がある場合に限られる。しかし、どういう場合に
中絶が容認できるのかの線引きは明確ではない。
また、中絶が「不正ではない殺人」であるとしているが、この意味が明確ではない。
- カトリックの「ダブル・エフェクト論」
- 一方、カトリックは母胎に危険がある場合にも中絶を容認しない。
胎児を殺すことは意図的な殺しだが、母親の死は予見されてはいても
意図されたものではないからである。このように意図されたものと
そうでないものを区別する議論をダブル・エフェクト論という。
- 2. 殺していいもの、いけないもの
- トゥーリーの「パーソン論」
- 胎児は新生児には生存権がないので、殺しても良いという議論をする。
あるもの(A)に生存権があるということは次のこと同義である。
「Aが経験とその他の心的状態の主体であり、Aがそうした主体として
生存することを欲求することができ、そしてAがそうした存在者として
生存しつづけることを現に欲求するならば、他人はそうすることを妨げるべきではない
という明白な義務を持つ。」このようなAをパーソンと呼ぶ。
ここでポイントは、将来パーソンになりうるものには生存権を認めないということだ。
問題点は2つある。ひとつは、植物状態や昏睡状態の人間には生存権はないのか?という点、
もうひとつは、新生児はいつからパーソンになるのかわからないという点である。
また、パーソンに生存権があるとする議論も、パーソンという言葉の定義を繰り返しているのに近く、
論証になっていない。
第2章 臓器移植を効率的に
臓器移植の道徳性は?
- 3. 五人のために一人を殺す
臓器移植によって、一人を殺すことにより五人の命を救えたとする。それは正当か?
- ダブル・エフェクト論
- 殺すことは容認できないが、死なせることは認める。これは常識的だが、
「殺す」=「直接的な意図」と「死なせる」=「予見された結果」
の区別は状況によっては明確ではない。
- フットの議論
- 「ポジティブな義務」=「積極的な行為(たとえば臓器移植)により人を救う」と
「ネガティブな義務」=「傷害を与えない(殺さない)ことにより人を救う」では
ネガティブな義務の方が優先される。
- トムソンの議論
- 場合によっては、ポジティブな義務の方がネガティブな義務より優先されそうなことがあり、
一概にフットの議論は適用できない。
- ハリスの議論
- 殺すことと死なせることは区別できない。死を防ぐことができるのに、
それをしないで死なせたとすれば殺すのと同じことである。
とすると、二人以上の人を救うために誰か一人を殺しても良い。
殺す人はくじで選べば公平ではないか(サバイバル・ロッタリー)。
- 4. 臓器は売買してもいい
臓器移植においては、臓器ドナーが圧倒的に不足している。
それは、ドナーが損をするのに対し、レシピエントが得をするからだろう。
だから、ドナーにも利益が出るように、臓器の売買を認めると良い、
と著者は提案する。
第3章 「自己決定」批判に反対!
生命倫理学の初期には、自己決定が基本的な原理であった。しかし、現在では
自己決定の批判が語られる。しかし、これは単に保守化したということではないだろうか?
- 5. 安楽死は容認できないのか
- 安楽死の種類
- 方法には
- 消極的安楽死:治療しない
- 間接的安楽死:苦痛を和らげ死期を早める
- 積極的安楽死:殺して苦痛から解放する
要因には
- 自発的安楽死:自分の意志で死ぬ
- 非自発的安楽死:本人の意志が表明できないので、親族が決める
- 反自発的安楽死:本人の意思に反した安楽死。これは問題外とされている。
がある。
- 新生児殺しの場合
- かなり重度の障害を持って生まれた子に治療を施さない場合は「消極的非自発的安楽死」。
しかし、消極的と積極的の違い(死なせるか殺すか)は明確ではなく、また、どちらが
苦痛を与えないかもわからない。
- 積極的安楽死はどうか?
- たとえば、癌の痛みでひどく苦しんでいる人が死にたいと思っているときはどうか?
アルツハイマー病になってしまって死にたいと思っているときはどうか?
- くさび理論、あるいは滑り坂理論
- 積極的安楽死反対論者は、慈悲によるものであれいったん殺人が認められると、
歯止めが効かなくなる、と論じる。これを「くさび理論」あるいは「滑り坂理論」という。
しかし、これは(非)自発的安楽死と反自発的安楽死を混同している。
- 6. インフォームド・コンセントは何のために
- パターナリズムから自己決定へ
- 昔は医者が患者に関して全てを決定していた。しかし、1970年代に入って
ようやく患者の自己決定権を認めようということになった。これが
インフォームド・コンセントである。
- インフォームド・コンセントの訴訟モデル
- アメリカでインフォームド・コンセントが急激に拡大したのは、
医者が訴訟を避けるためだった。
- インフォームド・コンセントの商業モデル
- 医者はサービスを提供し、患者はそのサービスを買うという考え方をすると、
医者がサービスの内容をきちんと提示するのがあたりまえ、というのが
商業モデルの考え方。
- インフォームド・コンセントのコミュニケーションモデル
- コミュニケーションモデルでは、医師と患者は対等の立場で、
話し合いながらより良い解決を目指す。しかしなかなかこう理想通りには行かない。
- インフォームド・コンセントの後退
- 「エホバの証人」の輸血拒否などの事件により、インフォームド・コンセント
の弊害が指摘されるようになった。著者によると、これはおかしい。
患者が不合理な判断をすることもあるということは、当然ありうることなので、
インフォームド・コンセントはそもそもそれを覚悟したところから始めるべきだ。
- インフォームド・コンセントの権力モデル
- 著者は、権力モデルを提唱する。もともと医師と患者の関係は対等ではありえない。
知識は圧倒的に違うし、医師の背後には組織があるし、何より患者は医師に
命を預けている。今重要なのは、患者の側で権力のネットワークを作っていって
関係を対等に近づけることだ。
- 6. 遺伝子改造社会の生命倫理学
- クローン人間反対の議論はおかしい
- マスメディアや政治家や生命倫理学者は、クローン人間に反対するが、
多くの論者はそう思っていないし、著者もクローン人間を禁止する理由はないと考える。
- マスコミが作る歪んだクローン人間イメージ
- マスコミは独裁者のクローンなどというイメージを作るが、これは現実的でない。
実際、問題になるのは、何かの理由で子供を作れない夫婦とか、独身主義者や同性愛者が
子供が欲しいと思うような場合である。
- 技術的な反クローン人間論
- 技術的な安全性を理由に反対する人がいるが、もし技術が高くなった場合には
どう言うのだろうか?また、技術的な理由で禁止するのは、障害児を生む可能性が
ある女性に子供を産むなというのと同様で、パターナリスティックで差別主義である。
どんな子供を産むかは個人の問題だ。
- 自然に反しているという理由でクローン人間に反対する議論
- クローンは自然に反しているという理由で反対する人もいるが、クローンが普及すれば
自然と思われるようになるはずだ。たとえば、病院の中での出産は自然だろうか?
試験管ベイビーは自然だろうか?今の時代、本当に「自然な」出産などほとんどない。
- クローン人間反対論は男性中心主義を守りたい人々の陰謀かもしれない
- クローン人間ができるようになると、男性は必要なくなる。女性の卵子と体細胞から
子供が出来るようになるからだ。これは男性中心主義者には我慢できないから、
政治家やマスコミがクローン人間に反対するのかもしれない。
- 遺伝子治療の倫理的問題
- クローン人間より差し迫った問題に、遺伝子治療の問題がいろいろある。
- 体外受精で複数の受精卵を作り、病気にならない遺伝子を持ったものを
選択することは許されるか?病気の問題がない場合にも、複数の受精卵から
最も優秀なものを選択すことは許されるか?
- 受精卵の遺伝子を組替えて病気を防いで良いか?さらには身体能力や
知的能力を向上させて良いか?
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