岡本「異議あり!生命・環境倫理学」ノート
- 2003/02/27
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- 2003/02/28
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第4章 人間中心主義で悪いか
環境倫理学では、人間による自然支配という「人間中心主義」が批判される。
これは正当か?
- 8. 動物の解放!?
- シンガーの議論
- シンガーは、黒人解放、女性解放などの延長として、「動物の解放」を唱える。
原則は、功利主義者ベンサムの2つの原理に基づいている。(1) 各人を一人として数え、
それ以上には数えない。(2) 苦痛を感じる能力のあるものに、苦痛を与えることは
道徳的に正当化できない。シンガーは全ての動物を等しく見るわけではない。
動物は3通りに分けられる。(1) 知性的で自己意識のある「パーソン」(トゥーリーが提唱した概念)。
これは、類人猿や鯨、海豚などである。これらには生きる権利がある。(2) 自己意識はないが、
意識があるもの。これらは殺してよいが、苦痛を与えてはならない。(3) それ以外の動物。苦痛を与えても良い。
著者はこの議論には問題があると考える。(1) シンガーは動物の間に新たな差別を導入している。さらに植物はどうか?
(2) 人間と動物は異なる。人間は相互に認め合うことが出来るが、動物は人間を承認するわけではない。
つまり、動物は道徳的な主体ではない。
- 9. ディープ・エコロジーと生態系主義
ディープ・エコロジーは、全ての生物あるいは生態系に対して配慮することである。
これで人間中心主義を脱することができるのだろうか?
- 生命の平等主義
- あらゆる生物が「生きる権利」と「繁栄する権利」を同様に持っている、
という考え方がある。しかし、これは文字通りに取ると、何も食べられなくなるし、
人体に害を及ぼす生物も殺せなくなる。
- 生態系主義
- 次に、生態系を保全することを重視する立場がある。しかし、自然に生態系があるからといって、
それを保護するべきだという必然性はない。また、生態系にはいろいろな種類があるから、
どの生態系を守るべきか言わなければならない。300年前の生態系を守るのか、
現在の生態系を守るのか?現在の生態系を守れというのは、単なる保守主義である。
- 人間中心主義は越えられない
- あらゆる生物に等しく配慮することは不可能だし、そう言うこと自体、人間中心主義である。
というのは、肉食動物が他の動物に配慮せず殺すのはあたりまえだし、草食動物が植物を殺すのも
あたりまえで、あらゆる生物に配慮せよなどというのは、人間が特別だからだ。
生態系を守れというのも、どのような生態系が望ましいかを考える際に、
人間を考えざるを得ない。
結局のところ、人間中心主義以外の立場はありえない。
第5章 予言された「人類滅亡」!?
終末論は、客観的な未来図なのか、それとも悲観的な世界観にすぎないか?
- 10. 環境汚染と資源の枯渇は必然的か
- 「沈黙の春」
- カーソンの「沈黙の春」は社会に大きな影響を与えた。しかし、その議論には
問題点がある。(1) 化学薬品による汚染と、人間による自然支配とを不注意に結び付けている。
(2) 生命中心主義と人間中心主義が、それと自覚されずに混在している。
(3) 化学薬品の使用の得失などのトレード・オフを考察していない。
- 「成長の限界」
- ローマ・クラブの「成長の限界」は、地球の有限性を自覚し、均衡状態の社会へと
方向転換することを説いた。しかし、これは発展途上国から見れば、
現在の西洋中心の社会の固定化を目指したものとも受け取ることが出来る。
- 環境倫理学の態度のあり方
- このような状況にあって、環境倫理学は次の2つの問題に対する立場を明らかに
しておかないといけないはずだが、そうしていない。(1) 悲観的な未来予測に対する
態度を明確にしておくこと。受け入れるのかどうか? (2) 地球の滅亡を回避するために、
個人の自由を大幅に制限して良いのかどうか?
- 11. 「豊かな社会」と「人口爆発」のジレンマ
- 豊かな社会と人口爆発
- 環境負荷の増大は「豊かな社会」と「人口爆発」によって起こっている。
1900年から1985年の間に、世界の人口は3倍に増え、エネルギー消費は15倍になった。
人口増加は発展途上国で起こり、豊かさの増加は先進国で起こっている。
では、その両方を抑えればよいという話になるのか?
- 無駄を無くせるか?
- 豊かな社会は浪費を伴っている。浪費をなくせばよいのだが、浪費をなくすと
社会そのものが崩壊しかねない。
- 人口は抑制できるか?
- 人口問題は、伝統的で自給自足的なな閉鎖社会が崩壊したために起こっている。
次の悪循環がある。貨幣経済に巻き込まれてしまったので、現金収入が必要になる。
収入を増やすために子供を産まなければならない。しかし、人口が増加すると
賃金が減る。賃金が減ると収入を維持するために子供を増やさないといけない。
この状態で子供を産むなと言ったとすると、それはますますの貧困化をもたらす。
- 豊かな社会と人口爆発は表裏一体
- 先進国の豊かさは発展途上国の人口によって維持されている。それは相互依存的だ。
発展途上国の過剰人口がなくなれば、先進国は発展途上国から安く物を仕入れることが出来なくなり、
先進国は豊かでなくなる。一方、先進国が浪費を止めれば、発展途上国の産業は崩壊する。
環境倫理学はこの状態に解決を与えられない。
第6章 環境保護にはウラがある
環境保護には流行があり、その裏には政治戦略がある。
- 12. ファッションとしてのエコロジー
環境問題には流行があり、その背景を考えることが重要
- 地球寒冷化論
- 1970 年代には、地球寒冷化と資源の枯渇が問題とされていた。
資源枯渇論が色あせるとともに、1988 年に温暖化論が喧伝された。
1970 年代には、「地球を守る」という考え方も作られた。
- リサイクル
- 1980 年代以降はリサイクル運動などが積極的に行われるようになる。
しかし、その中で、割り箸が槍玉に挙がるなど、あまり本質的でないことが
流行として問題になる現象が現れた。
- 企業イメージとしてのエコロジー
- 企業は、外に対しては、企業イメージを上げるために「地球にやさしい」という
ことばをいいかげんに使って消費者をだます。内に対しては、環境保護の
大義名分の下で、電気代などの経費の削減を行う。
- 近代主義批判としての環境保護
- 環境保護主義では、近代主義を「人間と自然の対立」ととらえて、これを批判する。
しかし、自然との共生と言ってみたところで、何も生み出されはしない。
- イメージ戦略
- 環境保護運動では、今のままでは恐ろしい未来が来るよというイメージを提示し、
一方で環境保護は自然との調和を生むという牧歌的なイメージを示す。しかし、
これだけではイメージだけが上滑りしてしまう。
- 13. 政治としてのエコロジー
環境問題に流行がある背景には政治的な力関係がある。といっても、これが
謀略であるとか、因果関係だとか言うつもりはない。ものごとはそう単純でもない。
- 環境戦略と原子力
- 70 年代の資源枯渇論と地球寒冷化論と 80 年代の地球温暖化論には共通点がある。
どちらも原子力を擁護する論理になる。
- 鯨保護の背景
- 1972 年、国連人間環境会議で、アメリカは突然商業捕鯨を規制する提案をした。
これはベトナム戦争や核廃棄物問題のカムフラージュだったといわれている。
- 1970 年代の環境保護運動
- 1970 年代に環境保護運動が盛り上がった背景には、アングロ・アメリカンの
エリートたちが、他国の経済発展を抑制しようとした意図があった。
- 1980 年代後半から 1990 年代にかけての地球環境問題
- 1980 年代後半に地球環境問題が言われるようになったのは、冷戦の終結に伴い
新たな脅威が必要になったことも理由のひとつである。
- 環境帝国主義
- こうしてみてくると、1970 年代以降の地球規模の環境問題の盛り上がりのもくろみは、
現在の世界秩序を維持し、発展途上国の経済発展を抑制するということがあったことが分かる。
また、環境問題は、先進国が発展途上国の資源にアクセスする論理的武器を与えることにもなる。
このように、地球環境という言葉は、普遍を装うための偽装になりうる。
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