週刊 やきものを楽しむ 1-30

監修:中島誠之助・中島由美
小学館ウィークリーブック、小学館
刊行:2003/04/22-12/02 (名目上 2003/05/13-12/16)
名大生協北部書籍、東山書店(名古屋東山)などで購入
読了日:2003/12/03
きれいな写真をめくって、文章を読んでゆくうちに、素人でもいろいろなやきものの特徴や 味わいが分かるようになっていて楽しい。30巻全部買ってしまった。 私もこれを読むまではどの地方のやきものも同じように見えていたが (もちろん最近は全国的に技術交流があるから、均質化されてきてはいるのだが)、 読んでいくうちにいろいろな違いが見えるようになった。

このシリーズは旅行ガイドのようにもなっているのも良い。とくにジャズの演出などの 専門家であるらしい北吉洋一氏がやきものの郷をめぐる紀行文は楽しく読める。 最近のこの手の週刊百科では旅と食は必需品のようで、毎号、器に和食を乗せる連載 「うつわにいどむ料理」も掲載されている。

本を見ていて、建築の人がよく言う「用・強・美」ということばを思い出した。 このことばは、建築に限らず、実用デザインにはたいてい当てはまる。 実用デザインは、実用的で、十分な強度があり、美しくないといけない。 用と美にはけっこう微妙なバランスがあって、芸術的に立派なデザインでも、 実際に使うにはちょっと...ということもよくある。平凡なデザインの方が、 使っていてうるさくないということもある。そのへんが難しいと思うし、 やきものの面白さだと思う。それに関連して、この本には「うつわにいどむ料理」 というコーナーがあって、芸術的な器に、和食の料理人森健二が似合う料理を盛ると いう趣向である。器に負けないように、かといって器を殺さないように料理を盛る、 さすがにうまいものだと感心する。

デザインということでは、やきものには不思議なところがある。100 円ショップで 売っているものもあれば、ほとんど芸術品で 100 万円を越えるものまである。 たしかに高いのは芸術的だけれど、さればとて 100 円のデザインも馬鹿にしたものではなく、 わびさびはないけれど単純であっさりした強みがあると思う。

それに関して思うのは、実は安い陶器が高級陶器の原点になってきたということがある。 たとえば、桃山の茶の湯では、日常の雑器に美が認められ、やがて高級な茶器と されるようになっていった。大正の民芸運動では、自然な用の美が認められ、 それもやがて高級品になる。そういうわけで、最近は 100 円陶磁器に 本物が隠れているのではないかと思って、ときどき買っては眺めている。 とはいえ、最近の大量生産では形がそろってしまうので、味わいを見出すのは難しい。

このシリーズの25巻目までは各地方ごとにやきものの特徴が紹介される。 そこでは、おおむね、現代のやきものの写真に6ページ、古典の名品の写真に4ページ 使っており、現代のデザインの洗練されたところと、それぞれの地方に昔から伝わる 基本的な特徴との両方がわかる。やきものが現代に生きるデザインなのだということが 良く分かる。現代は、あらゆる地方の技術を取り入れられる時代だから、やきものの地方色が なくなってきている面もあるが、それでも伝統を生かすという気分があって、 デザインの洗練度を高めつつも地方色を残しているようすがよくわかる。 以下、その順番にしたがってまとめてみる。ついでに、印象に残った言葉も引用する。

有田・伊万里焼(佐賀県)
日本の磁器の発祥の地で、美しい色絵や染付の磁器が特徴。秀吉の朝鮮出兵の結果 やってきた陶工李参平が開祖とされる。色絵では、次のものが代表的。 (1) 柿右衛門様式は、白の余白を生かした絵画的図案。明るい赤と、青、緑を 中心とする色を用いる。(2) 古伊万里は色絵に金を加えた華やかなもの。
九谷焼(石川県)
基本は、有田から伝わった磁器。江戸時代には、衰退と再興を繰り返していたが、 幕末に九谷庄三が現れ輸出もされるようになった。濃厚で華やかな色絵が特徴。 古九谷は、緑と黄が主で、白の余白をあまり残さない。再興九谷は、宮本屋窯の 赤と金の細密画、九谷庄三の華麗で細密な色絵など。
京焼(京都府)
もともと陶土があったわけではなく、京都という大消費地を背景に作られた窯。 全国の影響を受けているが、上品な感性が特徴。野々村仁清と尾形乾山が代表。 野々村仁清は、上品で繊細な色絵陶器。尾形乾山は、琳派のデザイン的あるいは 文人画的な図柄が特徴。
quote「そう、京都で焼かれるやきものは、すべて京焼なのである。染付も金彩も色絵も 焼き締めも、京都で焼かれればそれは京焼である。スタイルもテクニックも洗練も 野暮も関係なく、五条坂で購えばそれは京焼なのである。京都は奥が深い。」 (北吉洋一)
備前焼(岡山県)
古備前は釉薬をかけない焼き締め陶。茶色や焦げ茶の非常に地味なもので、 窯変などが魅力。桃山時代には茶陶として好まれた。江戸以降、細工物も 多く作られた。江戸以降は、施釉陶磁器に押され、古備前は作られなくなったが、 昭和になって金重陶陽が桃山の技法を復活し、現在は古備前風のものが隆盛を迎えている。
quote「正直いって備前焼は地味である。作家の窯やギャラリーを見て回っているうちに 倦怠ともいえるときがめぐってくる。なにを見ても同じような器に見えてしまうのである。 精神の摩滅状態。こんな時は器を手にとって見るといい。」(北吉洋一)
益子焼(栃木県)
もともと幕末に始まる新しい窯。もとは笠間焼や相馬焼に学んだ。民芸の浜田庄司によって 有名になった。細かい細工ができない土を使っているので、厚手のぽっちゃりしたシンプルな形になる。 デザインも民芸風のシンプルなものが典型。柿釉の茄子などが定番。
quote「実はあのぽってりしとした印象に、あまり興味がもてなかったということもあるかもしれない。」 (中島由美)
信楽焼(滋賀県)
狸の置物が有名だが、これは昭和になってからの話。古信楽は、焼き締め陶で、 白い鉱物粒が吹き出した赤褐色の肌が特徴。上に自然釉が流れて渋い味を出す。 江戸時代は主として日常雑器が焼かれ、明治、大正は火鉢が名産。
quote「もともと中世の古信楽は、無釉の壺、甕、擂り鉢など、どれも当時の日用品だった。 その信楽に変化をよんだのは茶の湯の流行。その素朴さと豊かな土の味わいゆえに、 茶道具に転用され、新たに茶器が注文された。」 (中島由美)
美濃焼(岐阜県)
江戸以前は瀬戸と区別されていなかったが、昭和になって、荒川豊蔵が美濃の古窯で 古志野を発見したことをきっかけにして、桃山の茶陶の代表である黄瀬戸、 瀬戸黒、志野、織部の産地であったことが明らかになった。江戸後期以降は 磁器も作られてるようになった。現在でも美濃は日本最大のやきものの産地で、 日本の洋食器の5割、和食器の6割を生産している。
志野は素朴な鉄絵の上に長石釉をかけた乳白色のものが代表。織部は、形と文様のデザインの斬新さで知られ、 とくに緑釉が特徴的。荒川豊蔵は、桃山陶の志野、瀬戸黒、黄瀬戸などの再現に尽力し、 人間国宝となった。
唐津焼(佐賀県)
鼠色系統の地味なものが多く、侘び茶の器として有名。もともと秀吉の朝鮮出兵によって 連れて来られた朝鮮人陶工の技術を元にしているものが古唐津。その後磁器に押されたが、 昭和になって中里無庵が古唐津の技法を復活させて再興。唐津焼は、色合いは地味ながらも、 絵唐津、彫り唐津、瀬戸唐津、斑唐津、朝鮮唐津、三島唐津、黒唐津、青唐津、黄唐津、南蛮唐津、蛇蝎唐津、 織部唐津など種類は多様。
瀬戸焼(愛知県)
鎌倉から室町時代にかけては日本で唯一の施釉陶が焼かれた。これが古瀬戸で、 中国の磁器を真似た壺などの祭祀用具が主。その後、茶陶も作られた。 桃山時代は美濃に押され、江戸時代は有田の磁器に押されたが、江戸後期には 磁器生産が始まり隆盛を取り戻す。陶器も磁器も何でも焼かれたので、とくに 瀬戸の特徴というものはない。
に記したように地図に誤りが多い。
萩焼(山口県)
秀吉の朝鮮出兵の結果連れてこられた朝鮮の陶工が開祖とされる。 江戸時代は毛利家の御用窯だったが、明治大正時代は苦境で、戦後復興される。 白釉と透明な枇杷色釉が特徴。絵付が無いのが基本。焼成温度が低いために 水がしみ込みやすく、次第に釉調が変化する。これを「萩の七化け」といって 茶の湯で珍重された。
笠間焼(茨城県)
陶土に恵まれていることを背景として、江戸後期に信楽の陶工に指導を受けて始まり、 やがて準御用窯となった。明治以降、擂り鉢と茶壷を主力にすることで関東一の 窯業地になった。伝統的には信楽焼に学んだ流し掛けの壷や甕などが作られた。 現在では自由に芸術的なものが作られている。
quote「大規模に陶磁器生産をおこなう窯業地というより、個人作家の集まる芸術の街のイメージを持っている。 なぜなら笠間と聞いて思い浮かぶのは松井康成氏の哲学的な美しさをもつ練り上げの壺や、 和太守卑良氏が創作したさまざまな文様だ。」 (中島由美)
常滑焼(愛知県)
平安時代からやきものを焼き続ける日本で最も古い窯業地のひとつ。常滑の壺や甕は 日本全国で使われていた。自然に灰釉が流れる豪快な大甕は古常滑を代表する。 江戸末期に現在の常滑の代表とされる朱泥が登場した。朱泥の急須は、明治以降 常滑を代表する製品となった。江戸末期にはまた、陶管の製造も始まり、 これも常滑を代表する製品となる。江戸末期、伊奈長三が開発した藻掛けの手法も有名。 現在では、伝統的なものだけではなくいろいろモダンなものが作られている。
壺屋焼(沖縄県)
焼き締めの荒焼(あらやち)と施釉陶の上焼(じょうやち)がある。 沖縄独特のやきものとして、酒器の抱瓶(だちびん)、からから、嘉瓶(ゆしびん)、 災難除けの獅子像であるシーサー、納骨器である厨子甕などがある。技法としては 白化粧や、白い粘土で模様をつけるイッチンなどが特徴的。文様としては魚文が有名。
quote「焼き締め無釉の肌に蘇鉄やクイナや竜を陽刻し、その部分に単彩釉を施した 壺屋の焼酎瓶は、家屋の中で鑑賞するよりも、戸外の明るい太陽の光に当てたときのほうが 美しく感じる。」(中島誠之助)
伊賀焼(三重県)
桃山から江戸初期のものが古伊賀で、茶陶が有名。とくに花入れと水差しが代表。 形はデフォルメされ荒々しい。耳付きのものが多い。緑のビードロ釉や焦げなどが 大きな特徴。江戸中期に再興され、雑器や茶陶が作られた。明治以後、とくに土鍋や 行平などの耐熱食器の産地として知られる。土が高温に耐えるものだからである。
古伊賀を代表するのが「破袋」という水指である。これは、一見すると割れが入って 形が崩れて肌もぶつぶつの出来損ないである。しかし
quote「伊賀の領主藤堂家に伝来し、現在、五島美術館に収蔵されている銘「破袋」の 耳付き水指が、やきものが作り得た造形の頂点にあり、永遠に他の追随を許さないもの だと思っている。」(中島誠之助)
越前焼(福井県)
平安時代末期に常滑焼の技術を導入し、焼き締め陶が作られるようになった。 以後、壺・甕・擂り鉢が主要製品となる。 室町時代には、壺の肩がなだらかになって、独自の形がでてくる。室町時代末期には 日本海側最大の窯業地となる。江戸時代以降は、瀬戸などに押されて衰退。 昭和46年に越前陶芸村ができて再興。
薩摩焼(鹿児島県)
朝鮮出兵の際に島津義弘が連れ帰った朝鮮人陶工が始めた。
朝鮮人陶工が始めた窯としては次の3系統がある。(1) 竪野系:藩の御用窯。 茶陶から始まった。そのうち、薩摩焼独特の錦手が開発された。錦手は、はじめ 京焼を手本としたが、だんだん独特の緻密で豪華な作風が出てきた。現在では 長太郎焼として受け継がれている。(2) 苗代川系:朴平意が開窯(現在、荒木陶窯が 受け継いでいる)。初めは、日常雑器が中心で、黒釉や蕎麦釉などが用いられる。 江戸末期から錦手を焼くようになる。明治以降、金襴手が欧米に多く輸出される。 現代の薩摩金襴手を担っている沈壽官窯がある。 現代の薩摩金襴手は、精巧な細工と豪華で高級感あふれる金彩色絵が特徴。 (3) 龍門司系:日常雑器を焼く。鮫肌焼をはじめとするさまざまの技法がある。
それ以外の系統として以下の2つがある。(4) 西餅田系:蛇蝎釉などが特徴。 (5) 平佐系:磁器が焼かれる。独特の技法として鼈甲釉がある。現在は廃窯。
丹波焼(兵庫県)
中世に常滑の影響を受けて焼き締め陶が始まる。時代が下がるにつれ、丈が低く 胴が丸い独特の形に変わってゆく。江戸になって施釉陶が作られるようになる。 とくに赤土部釉は独特。そのほか多様な装飾技法が使われた。篠山市立杭が中心地で、 そこでは日常の器が焼かれた。素朴だが品が良く、民芸運動で高く評価された。
砥部焼(愛媛県)
江戸中期から始まる。杉野丈助が砥石屑を原料にして白磁の開発に成功。 江戸後期から明治にかけて技術的に向上し、世界でも好評を博す。 厚手で素朴な磁器が特徴。
大谷焼(徳島県)
江戸中期に始まり、阿波特産の藍染のための藍甕が長い間特産だった。現代でも その伝統を引き継ぎ、鉄釉や焼き締めの大物(大甕や睡蓮鉢)が典型。
万古焼(三重県)
江戸中期に沼波弄山が創始したのが古万古(弄山万古)で、異国趣味が特徴。 江戸後期に森有節が再興したのが有節万古で、腥臙脂釉のピンク色が美しい。 また、型を使った急須や土瓶作りも考案した。 幕末から明治になって、山中忠左衛門の力によって四日市が万古焼の中心となる。 以後、紫泥の急須、土鍋、蚊遣り豚などの特産品が生まれる。
出石焼(兵庫県)
江戸中期に始まり、始めは陶器、そのうち磁器が焼かれるようになる。明治初期に いったん衰退したが、盈進社が白磁を開発。以後、白い肌に緻密な彫刻が出石焼の特色となる。
上野焼(福岡県)
もともと細川忠興(三斎)が朝鮮の陶工尊楷を招いて開いた窯。藩主が小笠原氏に 変わっても藩の御用窯として栄えた。遠州七窯のひとつ。緑青釉、ヤケ釉などが独特の釉。
小石原焼(福岡県)
茶陶の高取焼に始まり、これは遠州七窯筆頭として一子相伝で現在まで続いている。 それ以外は江戸中期に始まる民窯。飛び鉋、打ち刷毛目、流し掛けなどが伝統技法。
小鹿田焼(大分県)
小石原焼の陶工が江戸中期に始めたもので、技法は飛び鉋、打ち刷毛目、流し掛けなど、小石原と共通。 現在でも電力を使わず、伝統技法を守っているのが特徴。唐臼で陶土を粉砕している。
北海道・東北のやきもの
北海道は歴史が浅く、明治に始まる小樽焼が最古。東北の窯業は江戸に始まるものが 多い。規模が小さく、地元に密着。その中で比較的規模が大きいものは、福島県の会津本郷焼と 大堀相馬焼。会津本郷焼は、会津藩主保科正之が瀬戸の水野源左衛門を招いて始めた。 鰊を漬け込むための鰊鉢が有名。大堀相馬焼は青ひびと走り駒の絵付けが伝統的な特徴。
関東のやきもの
笠間・益子以外にはあまり大きな窯場はないが、陶芸家が思い思いの土地で窯を開いて 個性的なやきものを作っている。伝統がある窯場としては、幕末に開かれた水戸の御用窯の 小砂焼(栃木県)がある。金結晶という金色の釉薬で知られている。
中部・近畿のやきもの
中部・近畿地方はすでにこのシリーズでも多く紹介されている大窯業地である。その他にも 伝統ある窯場がいくつかある。たとえば、遠州七窯の中の、志戸呂焼、膳所焼、朝日焼、 赤膚焼は現在でも茶陶などを造っている。佐渡の無名異焼は独特の赤色粘土で有名。 高山の渋草焼は品の良い精緻な絵付けの磁器で知られる。
中国・四国のやきもの
備前・萩・砥部・大谷以外にもいろいろな窯場がある。国の伝統工芸品に指定されている 石見焼は大物が伝統。松江の付近には、楽山焼、布志名焼、母里焼、出西焼など多くの窯場があり、 藩窯の伝統を継ぐものから民芸運動から出てきたものまである。高知の尾戸焼(能茶山焼)は もともと藩窯で、品の良い陶磁器を焼く。
九州のやきもの
九州は秀吉の朝鮮出兵で陶工が連れてこられて以来の大窯業地。すでに紹介されている他に 以下のようなものがある。高取焼は遠州七窯筆頭で、場所をいろいろ移り変わったが、現在では 小石原にある。有田・伊万里に隠れがちだが、長崎と佐賀には、波佐見、三川内、肥前吉田、 白石などの大きな磁器生産地がある。熊本は、細川氏の保護を受けた高田焼、小代焼や、 良質の天草陶石を用いた天草の窯場がある。高田焼は精緻な象嵌で知られる。
26巻と27巻では近現代の陶芸家の紹介がなされる。
板谷波山
計算されつくした精緻なデザインが特徴。品の良い霞がかかったような仕上がりになる 「葆光釉」や精密な浮き彫りなどで知られる。
富本憲吉
独自のデザインで色絵、染付、白磁などを手がけた。とくに50歳を過ぎてからは、 華麗な連続紋の色絵磁器を作った。
楠部彌弌
絵具を溶かした土を薄く塗り重ねる「いろづち」を用いた優美なやきもので知られる。
六代清水六兵衛
多彩な釉薬を駆使した。とくに「古稀彩」という金をあしらいつつ渋く抑えるという いわゆる日本的美の典型のような色絵技法を開発した。
河井次郎
初期には中国古陶磁風のものを作り、中期には民芸運動の中核の一人となり、後期にはもっと 自由な造形に移っていった。
濱田庄司
民芸運動の中心人物の一人。素朴だが風格のある陶器を作った。
八木一夫
陶芸の革新を目指し、実用とは離れてオブジェを作った。
鈴木治
簡潔なフォルムのオブジェで知られる。
金重陶陽
備前の陶工の家に生まれ、はじめは細工物を作っていたが、昭和初期から 古備前の研究を始め、技術の復元に成功する。
荒川豊蔵
美濃で古志野の古窯を発見。桃山の志野、古瀬戸などの技法の復元を行った。 「豊蔵志野」と呼ばれるやわらかなフォルムの志野を造った。
加藤唐九郎
古窯や古文献の研究を行い「陶器大辞典」を編纂した。志野、黄瀬戸、瀬戸黒、 織部、信楽、唐津など幅広く桃山陶の技法を用いた陶器を作った。力強い作風で知られる。
中里無庵
唐津藩御用窯の家に生まれ、はじめは上品な献上唐津を作っていたが、 昭和初期から古唐津の調査を始め、戦後、古唐津の技法の再現に成功した。
三輪九和(十代九雪)
萩藩御用窯の家に生まれ、伝統を受け継ぐとともに、古萩の研究を通して独自の釉薬を創案した。
石黒宗麿
中国、朝鮮、日本の古陶磁を研究し、数々の意匠を試みた。
小山冨士夫
東洋古陶磁の研究者として有名。陶芸家としても多彩な技法を試みた。
加藤土師萌
中国明代の色絵磁器を始め、いろいろな技法を研究し、陶芸界の地位向上、技術向上に尽くした。
近藤悠三
おおらかな染付の作品などで知られる。
北大路魯山人
書や美食でも知られる数寄者。作陶は、おおよその形は職人に作らせ、少し手を加えたり 絵付けをしたりした。並外れた鑑賞眼と美食のセンスで、料理と調和する食器を作った。
川喜田半泥子
本職は実業家だが、古陶を研究し、奔放に陶器を作った。
加守田章二
斬新な造形と装飾で知られる。

28巻は茶の湯のやきもの。茶陶の種類とそれぞれの名品の写真がならぶ。

29巻では中国・朝鮮のやきものが紹介される。中国では漢の時代に色釉が出現し、 唐の時代に唐三彩の華やかなやきものが現れる。宋の時代には青磁や白磁が全盛となり、 元から明になると白磁にコバルトで絵付けした青花(染付)が花開く。明清帝国の時代には 白磁に華麗で絢爛たる絵付けをした五彩、金襴手などが作られる。朝鮮では、高麗の時代に 独特の青磁が全盛となる。李朝の時代には粉青沙器(日本では三島と言われる)が生まれ、 日本にも大きな影響を与える。17世紀以降はほとんどが白磁となるが、中国と違って、 絵付けの色数は抑制され独自の美しさを誇っている。

30巻は日本のやきものの歴史。縄文土器に始まり、弥生土器、土師器、須恵器と続く。 奈良時代には三彩が作られるが、平安時代に入って緑釉単彩となる。これは青磁の模倣を したためである。また平安時代には、須恵器の後継として灰釉陶が猿投窯などで作られた。 中世を迎えると、瀬戸で唐物を模した施釉陶が焼かれ、常滑・渥美で焼き締めの壺、甕、鉢 などが焼かれた。常滑の影響を受けて、越前、丹波、信楽でも窯が発展した。 珠洲では須恵器系の燻し焼による黒灰色の壺、甕、擂鉢などが焼かれた。また備前の 擂鉢も大きなシェアがあった。室町末期から桃山にかけては美濃がやきものの中心になり、 さまざまな意匠の茶陶や食器などが作られた。備前、信楽、伊賀でも独自の茶道具が生まれた。 楽焼はもともと利休の注文で、以後、千家と関連が深い。秀吉の朝鮮出兵以降、 朝鮮の陶工が連れて来られ、唐津をはじめ九州・中国地方で多くの窯ができた。 さらに有田・伊万里では磁器が焼かれるようになり、17−18世紀には日本の磁器の生産を 独占し、技術もどんどん洗練され、ヨーロッパにも輸出された。とくに鍋島焼は献上用の高級品。 一方、江戸期には京都で仁清、乾山らが洗練された陶器を作った。また、江戸期には各地で 藩窯ができた。明治以降は、多彩な展開を見せる。


気付いた誤り

実際に、瀬戸に行ったところ、地図(第9号22ページ)に間違いが多いことに気付いた。
  1. 「窯ぐれ」の位置:尾張瀬戸駅前に書いてあるが、実際は地図上の「宮前橋」の文字の「前」のあたりにある。
  2. 「かわらばん家」の位置:実際は、地図上で「ギャラリーMURO」で指されている場所にある。
  3. 「ギャラリーMURO」の位置:実際は、「川村屋賀栄」の少し東側にある。
  4. 「えんごろ」の位置:実際は、地図上で「かわらばん家」で指されている場所にある。