イラク建国 「不可能な国家」の原点
阿部重夫著
中公新書 1744、中央公論新社
刊行:2004/04/25
名大生協で購入
読了:2004/05/16
イラクの建国の歴史をたどる本。権謀術数が渦巻く中を、いろいろな人々が
生きていく様子を描いていて実におもしろい。ガートルード・ベルを主人公に据えて、
ジャーナリストらしい筆致で面白く読ませる。
歴史の教科書のように無味乾燥でもなく、小説家のように人間劇に仕立てず、
ちょうどその中間くらいで、ベル女史の活躍を織り交ぜつつ歴史の動きを語る。
こういうふうに一人の人にスポットを当てつつ大きな流れを描き出して見せるのは、
ジャーナリズムの手法である。
印象的な部分を一つ挙げてみる。大戦後のイラクのありかたを決めるカイロ会議で、
ベルがローレンス(アラビアのロレンス)に向かって「この青二才!」
と言ってローレンスが黙った、という場面がある。アカデミックな歴史家なら、
あんまりこういうことは書かないだろう。小説家なら、
このあたりのベルとローレンスの間の心理の動きを詳しく描いて見せるだろう。
これに対しこの本では、
「この青二才!」。ぴしゃりとベルがたしなめた。ローレンスは耳まで
赤くなり、黙ってしまう。
ということで終わり、これ以上深入りはしない。人間の行動を交えながらも、
憶測まで深入りしない範囲で生き生きと描いて見せるというのが、
ジャーナリスト的なところである。私としては、もうちょっと深い政治的背景にも
興味がありつつ(歴史家的興味)、ベルのもっと深い人となりにも興味が
ありつつ(小説家的興味)ではあるが、この書き方はこれとして興味深く読んだ。
ところで、歴史が複雑なので、前後関係を見失うことが
ときどきあった。そういうときは、前のページを見直してよく考えないといけない。
そのためには、本当は、索引や年表がほしいところである。アラビア語や
人名がでてきて、はてこれは何だったけ、誰だったっけ、
と前を見返さないといけないことが何度もあった。
ここでは、その代わりに中途半端ではあるが、5章を読んだとき、
索引代わりにメモしたものを書いておく。
- ナシーブ:スンナ派名望家 p.142
- マドラッサ:学塾、イスラームの宗教学校 p.155
- ハウザ:マドラッサの集合体 p.155
- ムジュタヒド:イスラーム法解説者で、ハウザを支える p.156
- ウラマー:イスラーム法学者 p.160
- イマーム:シーア派導師 p.155
- ノマド:遊牧民 p.161
- シャイフ:長、族長 pp.143,161
この本を読んで強く感じるのは、第一次大戦あたりからの歴史の連続性である。
日本の歴史は、第二次世界大戦でその前後が途切れていると感じるが、
欧米や中東はそうではない。いまのイラクの混乱も、
結局はこのあたりに源があると同時に、最近のEUの拡大も、
このように互いに争っていた時代を乗り越えて得られたものだということに
重みを感じる。
それにしても、日本は、ベルやローレンスのようなアラブ専門家がいるとは
思えない自衛隊をイラクに派遣してしまった。どうするつもりだろうか?
なお、著者の阿部重夫氏は有能なジャーナリストで、
雑誌「選択」の編集長をしていたが、経営陣を批判したために
解任されたという前歴の持ち主であるらしい。
この本を見ていて、アラビア語の日本語表記がちょっと気になった。
たとえば、ルブ・アル・ハリ砂漠をルブ・アッ・ハリ砂漠としているが、
これはおそらくおかしい。発音記号の付いたアラビア語表記がわからないので
はっきりしないが、たぶんルブ・アル・ハリの方が正しい。
そもそも、アラビア語の定冠詞アルは後ろに来る子音の種類によって、
アルもしくはアッと発音する。後ろにハが来るときはアルになるはずである。
実際、手元の世界地図(成美堂出版)ではそれが区別されている。
ルブ・アル・ハリは Rub' al Khali となっていて、一方でたとえばサマワは
As-Samawah(アッ・サマワ)と書いているからたぶんちゃんと
区別しているのであろう。そういうわけで、ルブ・アル・ハリが正しいと思う。
その他にも同様の気になる表記があるが、いちいち確かめてはいない。
以下、読みながら書いていったサマリー。
- プロローグ
- イラク建国の立役者の一人、「砂漠の女王」ガートルード・ベル(1868-1926)の紹介。
- 第1章 東方へ!
- 19 世紀末から 20 世紀初頭、大英帝国が世界の海を支配していた。
現在のイラクはオスマン・トルコが支配していた。
1888 年、ドイツではヴィルヘルム2世が皇帝に即位した。
以来、ヴィルヘルムは対外膨張政策を取り始める。
ドイツはトルコと組み、3B(ベルリン―ビザンチウム―バグダッド)鉄道を
作り始める。これにより、インド洋への路を確保しようとした。
これに対し、1907 年英露協商が結ばれ、英仏露の三国協商という形で
ドイツ包囲網ができた。英露協商の中身は、中央アジアの勢力争いの手打ちであり、
勝手に勢力圏を決めたものである。ペルシャは、北部がロシア、南部が英国の勢力圏とし、
トルキスタンはロシア、アフガニスタンは英国が勢力圏とした。
当時のアラビア半島も情勢は複雑である。東岸はトルコが押さえている。
北部のハーイル周辺はトルコと親しいラシード家の勢力範囲、中部のリヤド周辺は
サウード家の勢力範囲、西岸のヒジャーズ地方は太守(シェリフ)のハーシム家の勢力範囲である。
1914 年、第1次世界大戦勃発。
- 第2章 反英蜂起
- ドイツは「ツィンマーマン計画」という謀略を立てた。これは、ペルシャや
アフガニスタンを対英「聖戦」に巻き込もうという計略である。外交官ヴァッスムスと
軍人ニーダーマイヤー大尉がこの任を命ぜられた。この二人は仲違いし、別行動を取る。
ニーダーマイヤーは、ヴィルヘルム2世とオスマントルコのスルタンの宸翰などを持って
苦労してアフガニスタンに赴く。1915 年、カーブルに到着。しかし、英国もアフガニスタンに
「アメ」を約束しており、工作は失敗する。ヴァッスムスは、やはり 1915 年、
ペルシャに入り、ペルシャ南部で反英攻撃を煽動する。
しかし、ペルシャに行く途中で暗号帳を奪われるという失策をする。このために、
ドイツがメキシコに宛てた暗号電報が解読され、アメリカの参戦につながった。
- 第3章 それぞれの聖戦
- 英国では、アラブ局とインド省の仲が悪かった。アラブ局の作戦は、アラブを煽って
トルコに対する反乱を起こさせようとするものだ。名門ハーシム家を代表する
メッカの太守(シェリフ)フサインとその四男ファイサルをかつごうとしている。
一方で、インド省はバスラを占領し、メソポタミアを狙っていた。1916 年 3 月、
ベルはバスラで無給の連絡役になる。同年 4 月、英・インド混成の北進軍は
クートでトルコ軍に大敗北を喫する。
ドイツのニーダーマイヤーは、アフガニスタンの煽動に失敗し、1916 年、命からがら
ドイツに帰る。同じくドイツのヴァッスムスは、ペルシャへの工作に失敗し、ドイツに帰る。
戦後、ペルシャで農業指導を行おうとするも、失敗。ベルリンで窮死する。
- 第4章 「千夜一夜の都」陥落
- ベルは、インド遠征軍所属の連絡将校、兼カイロ派遣員となり、ベル少佐になる。
英国アラブ局は、1916 年メッカの太守フサインを決起させた。
以後、ローレンス(アラビアのロレンス)の活躍でゲリラ戦を展開した。
同年末には、バスラ(インド省)の主任政務官コックス少将は、
サウード家のイブン・サウードに軍事援助を約束する。
1917 年 3 月、モード将軍率いる英国軍はバグダッド軍を陥落させる。
そうこうしている間、英国外交は三枚舌を使っていた。このことは後々大きな禍根を残す。
1916 年、英仏間で「サイクス・ピコ協定」が結ばれていた。これは、トルコ領を分割する密約で、
メソポタミアを英国保護領、大シリアとユーフラテス上流をフランスの保護領とした。
一方、それ以前、1915-1916 年の「フサイン・マクマーン書簡」では、太守フサインに
シリア、パレスティナ、ヒジャーズの自治権を与えることを約束していた。また、その前の
1914 年には、英国外相はトルコにアラビア半島の南北分割を約束していた。ただし、これは
トルコの参戦で闇に葬られた。それだけでなく、1917 年、バルフォア宣言で、ユダヤ人に
民族の故郷を与えることを約束する。これが現在のイスラエル・パレスチナ問題の起源となる。
1918 年 10 月、ローレンスとファイサルはダマスカスに入城、
11 月、第一次世界大戦が終わる。1919 年、パリ講和会議では、列強の陰謀が渦巻いた。
ファイサルも会議に出席し、ローレンスもアラブのために努力するが、独立は失敗。
しかし、ファイサルはダマスカスに居座る。1920 年、メソポタミアでは反英暴動が続く。
英国人の死者は数百人、アラブ人の死者は一万人を超える。その間、1920 年 7 月、
ダマスカスのファイサル政権は、イギリスの助けもないままフランスに追い出される。
- 第5章 アワズの遺産
- この章は主としてイラクのシーア派の歴史。
シーア派では、預言者ムハンマドの娘婿のアリーをイスラームの正統派後継者と考える。聖地としては、
ナジャフとカルバッラーが双璧。ナジャフはネクロポリス(死者の都)である。
もともとメソポタミアのシーア派は、少数の貧者たちと、18 世紀にスンナ派支配の
ペルシャから逃れてきたペルシャ人聖職者たちから構成されていた。18 世紀後半から 19 世紀にかけて
遊牧民の定住化という社会変化、ワッハーブ派による略奪などを背景に、シーア派への改宗が進んだ。
ナジャフはとくに 19 世紀半ばから終わりにかけては、「アワズの遺産」によって栄えた。
これは、北インドのシーア派アワズ朝の王による寄進である。これはアワズ朝が英領インドに
貸した金の永久ローンであった。ところが、19 世紀末から、ペルシャのガージャール朝が衰退してきて、
寄進が減り、20 世紀初めには困窮が始まった。このために社会の不安定化が起こった。
大戦後の 1920 年 6 月、スンナ派シーア派合同の反英蜂起がナジャフで起こる。
1920 年 11 月、バグダードのスンナ派ナシーブであるアブドゥル・ラーマン・アッ・ガイラーニを
首相とするスンナ派アラブ人暫定内閣が発足する。シーア派は、アラブ人にペルシャへの
反感を煽ることで押さえつけた。現在、アメリカもイラクでシーア派を分裂させ押さえ込もうとしている。
- 第6章 イラクという空中庭園
- 1921 年、カイロに英国の東方専門家が集まって、中東の将来を決めた。ここで、
ベルは、クルド人の多いモースル州、スンナ派アラブ人の多いバグダード州、
シーア派アラブ人の多いバスラ州を一体とすることを主張し、それが通った。
ローレンスやトインビー(歴史家)はクルディスタンを一緒にすることに反対したが、
英国はキルクーク油田を手放したくないこともあり、容れられなかった。
これが現在に続くクルド問題のひとつの源となった。
トランスヨルダンはハーシム家の次男アブドゥッラーが統治することとなり、
イラクは四男ファイサルが統治することとなった。1921 年 8 月、イラクで
国民投票が行われ、ファイサルがイラク国王となるが、この投票が形だけのもので
拙速にイラク国王を決めたことが、後に禍根を残すことになる。
一方で、アラビア半島では、サウード家のイブン・サウードが勢力を伸ばし、
ラシード家、ハーシム家を追いやり、半島全体を平定する。
トルコではスルタンの権力が衰退し、勇将ムスタファ・ケマルが勢力を伸ばす。
1923 年、ケマルはトルコ共和国の誕生とともに大統領となる。以後、トルコは世俗化政策を取る。
トルコはモースル州の領有も狙ったが、クルドを抑圧し反乱を起こされたために、
国際社会の信頼を失い、結局手放さざるを得なくなる。
この章の後半はクルド人の歴史が語られている。スンナ派のスーフィズム(神秘主義)を
信仰している者が多く、部族社会である。20 世紀には、反乱や内紛が数多く起こっている。
彼らは抑圧されても来たが、無辜の民でもなく、第一次大戦中に起こったアルメニア人の虐殺に関わっている。
- 第7章 「豚の国」
- サウード家のサウジアラビアの石油利権を、母国イギリスではなくアメリカのカリフォルニア・スタンダード石油会社 (SOCAL)
に与えたジャック・フィルビーの話。そして、ソ連の二重スパイとなったその子キムの話と続く。
最後に、ベルのさびしい晩年の姿が描かれる。父親はイギリスで没落し、本人は脆弱なイラクで
遺跡発掘などで気を紛らわす。
- エピローグ
- 部族制の根強いこの地では、西欧近代流の民族国家など不可能である。