The Two-Mile Time Machine

Richard B. Alley 著
Princeton Paperbacks, Princeton University Press
刊行:2000 年
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氷に刻まれた地球11万年の記憶 ― 温暖化は氷河期を招く

Richard B. Alley 著、山崎淳訳
ソニーマガジンズ
刊行:2004/05/29
名大生協で購入

読了:2004/09/13


氷コアによる古気候の復元の一般向け解説書で、英語原文は平易に書かれた良い解説書。 Phi Beta Kappa Award in Science という賞も取っている。 だが、後で例を挙げて指摘するように、日本語版はかなり質が悪くて、読むに堪えない。 私は最初は日本語版を買って読み始めたのだが、途中でこの日本語は読めないということが わかって、あきらめて英語版を買って読むことにした。 このような翻訳は本の価値を著しく低下させる -- おっと、これでは悪い翻訳調が うつっている。正しくは -- こんな翻訳ではせっかくの好著も台無しだ。

もうひとつ翻訳本の方のかなり大きな問題点は、原著巻末の文献表を全く省いてしまっている ことである。元の本にはかなり丁寧な文献リストが付いていて、プロが読んでも いろいろな観測事実や理論のソースがわかって非常に便利なのに、翻訳本ではそれが削除されている。 これは、翻訳者もしくは出版社の担当者が、理系の学問の学び方を全くわかっていないせいだろう。というより、 文系の専門書でも文献表は重要だから、文献リストの削除を決めた人は そもそも学問の仕方を知らないのではあるまいか。

翻訳の悪口はこれくらいにして、内容の方は、素人の人が基本的なところから最先端のところまで だいたい理解できるようにうまく工夫されている。多少説明のしかたで気になるところはあるが、 全体的には良く書けていると思う。内容が最先端のものであることは、巻末の文献表を見ると よくわかる。ほんの数年前の成果が噛み砕かれた言葉で書かれているのである。

映画 The Day After Tomorrow はこの本を下敷きにしているのかもしれない。 映画の主人公は氷コアを扱う古気候の専門家で、この本の著者もそうである。 以下にまとめるように、過去には急激な(映画のように1日ではないが、数年程度 かもしれない)温暖化や寒冷化が起きていることが知られている。 だから、映画のように二酸化炭素の増加があるとき急激な寒冷化の引き金を引くという ことも無きにしもあらずなのである。

で、本書の14章、15章のとくに最新の部分のサマリーを書いておく。ここ 10 万年以内には、 Dansgaard-Oeschger oscillations という急激な寒冷化と温暖化と繰り返しがあることがはっきりしてきた。 その原因は、海洋全体の循環(深層循環、熱塩循環)に求められる。深層循環は Broecker の ベルトコンベアーモデルで模式的に表される。この海洋ベルトコンベアーでキーになるのは、 沈み込みが起こっている北大西洋北部である。もし、たとえば何かの理由で北大西洋の塩分濃度が 下がったとする。すると、沈み込みが止まる。すると、河川水の流入によってますます海洋表層の 塩分濃度が下がる。そこで、沈み込みの停止はそのまま維持され、そのためにヨーロッパを 中心に寒冷化が起こる。中高緯度が寒冷化すると世界中で風が強まり、そのために海洋からの 冷たい深層水の湧昇が強まる。そこで大気が冷やされて、水蒸気が減り、水蒸気の温室効果の 減少もあって、全球的な寒冷化に結びつく。

たとえば、次のような周期的な変化が起こるかもしれない(Broecker)。海洋コンベアーが 熱を北へと運ぶと氷が融けてゆく。すると塩分濃度が下がって北大西洋の沈み込みが弱まる。 すると寒冷化が起こって氷が増えてくる。すると塩分濃度が上がるから、再び北大西洋の 沈み込みが活発化して温暖化する。

北大西洋の沈み込みには3つのパターンがあるらしい

温暖期
現在と同じようにグリーンランドの東西南北で沈み込み、それが大西洋底層の水になる。
ふつうの寒冷期(Dansgaard-Oeschger 振動の寒冷期、氷期の最寒冷期)
極北での沈み込みがほとんど停止して、グレーンランド南西方のラブラドル海あたりの 沈み込みも弱まる。結果として、南極で沈んだ水が大西洋の底にまで広がる。
とくに寒い寒冷期(Heinrich events)
北大西洋の沈み込みがほとんど停止。これはおそらく氷山が融けて、北大西洋の 塩分濃度が下がるためである。代わって、南極で沈んだ水が大西洋の中深層を覆う。 赤道を横切って北に流れる表層の流れがなくなる。とくに寒くなるのは北半球であって、 南大西洋周辺は、南極周辺での沈み込みが活発化する結果むしろ暖かくなる場所もある。

寒冷期の特徴をまとめておく。北大西洋の沈み込みが弱まる結果、北大西洋を中心として 寒冷化が起こる。寒冷化は乾燥化ももたらす。その結果、水蒸気の温室効果が弱まる。 また、沼沢地が減る結果、メタンの温室効果も弱まる。一方、南北温度差が大きくなる結果、 風が強まり、海の表層と中層の混合が良くなって熱帯域の海水表面温度が下がる。

説明のしかたで気になる点を一つ。大気や海洋の大循環の説明で、地衡流のバランスの説明をせずに、 コリオリ力が北半球で進行方向右向き(南半球では進行方向左向き)に働くということだけで通しているところだ。 こういう説明をすると、大きなスケールの流れは基本的に曲がるものである、という話になってしまう。 しかし、地衡流でバランスすれば、流れは「まっすぐ」進む、というのが地球物理学の初歩で習う話で、 ちょっと気になるところではある。まあ初心者向けだからしょうがないのかもしれないが。


翻訳に関する問題点

この訳者はあまりこういう科学の本を訳したことがないと見えて、とくに科学的な部分で訳が おかしいところが多い。最初は日本語だけ読んでいたが、6章はとくに読むに堪えなかったので、 それ以降、英語の原文を読むことにした。科学的な部分以外でも、訳文があまりこなれていなくて いわゆるバタ臭い日本語になっているところも多い。以下、主として日本語版の pp.75-90 あたりで、日本語版がはっきり誤っているところを指摘する。それ以降は、 いちいち日英両方読むのが面倒になったので日本語を読むのはあきらめて、基本的に 英語版だけを読んでいくことにした。pp.75-90 以外の部分は、ときどき気付いたところだけを メモする。誤りが pp.75-90 に集中しているという意味ではない。

なお、以下の日本語版は初版第1刷によるものである。

場所全体を通して(日本語版 p.10 初出、英語版 p.4 初出)
英語ice core
日本語版氷芯
吉田私訳氷コア
コメント core にあたる良い日本語はなくて、「コア」とするのが専門家の間でも一般的。 良い日本語訳を作っていない専門家にも問題があるが、かといって、「氷芯」が 良いとも思えない。

場所日本語版 p.20、英語版 p.12
英語sediment cores
日本語版堆積物の芯にあたる部分
吉田訳堆積物コア
コメント ice core と同様。「堆積物の芯」では、堆積物に硬い芯の部分があるみたいで おかしい。

場所日本語版 p.75、英語版 pp.60-61
英語Almost everything around us is made of atoms, each of which contains a dense nucleus of heavy, positively charged protons and uncharged neutrons surrounded by a cloud of light-weight, negatively charged electrons.
日本語版われわれの周りにあるほとんどすべての物は原子でできている。 原子は、重いプラスの電気を持った陽子と電荷を持たない中性子とが、 軽いマイナスの電気を持つ電子の雲に取り囲まれた密度の高い核を内蔵している。
吉田訳われわれの周りにあるほとんどすべてのものは原子でできている。 原子の中心には、重い正電荷を持った陽子と電荷のない中性子から成る核がある。 核のまわりを負の電荷を持った軽い電子が取り囲んでいる。
コメント 日本語版の訳が誤りであることを指摘するのは、中学校か高校の理科の問題。

場所日本語版 p.75、英語版 p.61
英語the exact number of neutrons is usually not critical
日本語版中性子の正確な数は普通はそれでなくてはならないというもの ではない、つまり臨界ではない。
吉田訳中性子の数は、正確にある数でないと原子核が不安定になるという ようなものではない。
コメント critical はいつでも「臨界」と訳せばよいものではない。

場所日本語版 p.77、英語版 p.62
英語to bend the flight paths
日本語版航跡を曲げる
吉田訳飛跡を曲げる
コメントイオンは船じゃあるまいし。

場所日本語版 p.77、英語版 p.62
英語standard mean ocean water
日本語版標準中間海水
吉田訳標準平均海水

場所日本語版 p.78、英語版 p.63
英語isotopic composition
日本語版同位元素構成
吉田訳同位体組成
コメントcomposition を「構成」と訳すのは学部学生がよくやる間違い。

場所日本語版 p.81、英語版 p.65
英語such as the facts that the freezer is not beaming microwaves into the roast, and that the roast is not highly radioactive
日本語版たとえば、オーブンがマイクロ波をロースト・ビーフに 照射する電子オーブンではないこと、ロースト・ビーフは高度の放射能を持っていないことなど
吉田訳たとえば、冷凍庫がマイクロ波をロースト・ビーフに照射しないこととか、 ロースト・ビーフが高い放射性を持っていてひとりでに温まったりしないこととか
コメント前半は意訳で許されるにしても、後半は「高度の放射能」では 温度との関係がよくわからなくなる。

場所日本語版 p.83、英語版 p.67
英語temperature profile
日本語版温度像
吉田訳温度プロファイル or 温度の深さによる変化のしかた
コメントprofile にあたる適当な日本語が無いのは確かだが「像」では 何のことかよくわからない。

場所日本語版 p.83、英語版 p.67
英語All create difficulties and all suffer from nonuniqueness
日本語版すべて困難を伴い、すべて結果が一つではないという非難を受ける。
吉田訳どういう方法を用いるにしても困難はあるし、結果は一つには決まらない。
コメントsuffer from は「非難を受ける」ではない。

場所日本語版 p.84、英語版 p.68 ; 図のキャプション
英語the Little Ice Age, the warmth from before the Little Ice Age (including the Medieval Warm Period and earlier warm times, here labeled "Mid-Holocene warmth"), and the ice age
日本語版「小氷期」(「中世の温暖期」およびその前にあった暖かい時期で、 ここでは「第四紀の新期半ばの温暖」と呼んでいるものを含む)と氷期
吉田訳「小氷期」、「小氷期」の前の温暖期(「中世の温暖期」と その前の温暖期とをまとめたもので、ここでは「完新世中期の温暖期」と呼ぶ)と最終氷期
コメント日本語版では、大事なことばが抜けているし、括弧の中も変な感じ。

場所日本語版 p.85、英語版 p.69
英語an inverse technique
日本語版反対(インバース)技法
吉田訳逆問題の技法
コメントふつうの辞書にあまり載っていない専門用語ではある。

場所日本語版 p.86、英語版 p.70
英語the temperature in Greenland has changed twice as much as one would have calculated using the measured ice-isotopic shift and the modern relationship between temperature and isotopic ratio
日本語版グリーンランドの温度は、温度と同位元素比率間の氷中同位元素転移の 測定値や、現代における両者の関係を用いて計算して得られる数値よりも、二倍大きく変化していた。
吉田訳グリーンランドの温度は、現在の温度と同位体比の関係を使って 氷の中の同位体比から計算した温度に比べて、2倍も変化していた。

場所日本語版 p.88、英語版 p.72
英語If you hold your hand over a newly poured glass of cola, you will feel the little drops thrown into the air by breaking bubbles. If you allow the cola on your hand to evaporate, you will find brown, sticky spots, showing that the bubbles were throwing sugar and artificial coloring out of the glass.
日本語版新たに注いだばかりのコーラ飲料のグラスを手に持っていると、 泡が割れて小さな玉が大気中に出ていくのを感じるだろう。 手中のコーラを蒸発させると、茶色のねばねばした斑点が残る。 泡が砂糖や人工着色料をグラスから放り出している証拠だ。
吉田訳注いだばかりのコーラのグラスの上に手をかざすと、 泡がはじけて小さなしぶきが手にかかってくるだろう。 そのしぶきが蒸発すると、茶色のねばねばしたつぶつぶが残る。それで、 泡がはじき飛ばしたものの中に砂糖や人工着色料が含まれていたことがわかる。

場所日本語版 p.89、英語版 p.72
英語The peak concentrations of peroxide in summer snow depend on many things, including the concentrations of other chemicals in the atmosphere with which the peroxide can react
日本語版夏の雪に過酸化水素が濃縮される最大のピークは 多くのものに左右される。その中には、過酸化水素が反応する可能性のある ほかの化学物質が大気中に濃く集まる場合も含まれる。
吉田訳夏に降った雪に示される過酸化水素の濃度の(年毎の)最大値は 多くのものごとに左右される。たとえば、過酸化水素が反応する可能性のある 大気中のほかの化学物質の濃度などである。
コメントconcentration(濃度)を「濃縮」と訳すのは学部学生がよくやる間違い。

場所日本語版 p.90、英語版 p.74
英語Ice chemists, especially those working on mercury, lead, and other naturally rare materials that humans have made common, often seem a little strange and paranoid to "normal" people. However, "just because you're paranoid doesn't mean they're not out to get you" -- the dirty environment made by humans really is out to get ice chemists, so they need a little paranoia.
日本語版氷化学者、とりわけ水銀、鉛、その他の自然状態ではめったにないが 人間がありふれたものにしてしまった物質を扱っている研究者は、「正常な」人から、 ちょっと変人とか偏執狂の類に見られることがよくある。しかし、「きみが偏執狂だからといって 奴ら(つまり、汚い環境)がきみを陥れないという保証はない」--人為によってつくられた 汚い環境は、氷化学者を騙そうと虎視眈々と狙っている。だから、氷化学者は少しばかり 偏執狂であることが必要なのだ。
吉田訳氷化学者、とくに自然状態では稀だが人間がよく使う 水銀や鉛などの物質を扱っている研究者は、「普通の」人から見ると、ちょっと変人で 被害妄想に憑かれているように見えるかもしれない。しかし、よく言われるように、 「被害妄想があるからといって、本当に誰かに狙われていないとは限らない」--そう、 氷化学者は、人間が作った汚い環境に狙われているのだ。だから氷化学者は、 ちょっと被害妄想の気があるくらいじゃないとやっていけないのだ。
コメント誤訳とはいえないかもしれないけれど、日本語版はちょっとおかしい。 まず、Just because you're paranoid doesn't mean they're not out to get you. と いう文句(とその変形)はインターネットで検索するとたくさん出てくる。したがって、 これはありふれた文句であり、それを引用しているのである。ただし、この文句の 出典はわからなかった。quotations の辞典にも見つからなかった。この意味を解く鍵は二つある。 まず paranoia は「偏執病」とか「妄想症」とか訳されるが、この語は普通の日本人には 一般的ではないので、症状の特徴である「妄想」を使って訳した方がわかりやすい。 一方、インターネット検索では You are not paranoid if they are really out to get you. というのもよくある。これは素直に「もし本当に誰かに狙われていれば、被害妄想があるとは言えない。」 というわけで、わかりやすい文句である。問題の Just because ... はこれの対偶を 取ったような文句で、「被害妄想があるからといって、本当に誰かに狙われていないとは 限らない。」というちょっとひねったことになっている。それがちょっと気が利いた 感じなので有名な文句になっているのではないだろうか。

場所日本語版 p.106、英語版 p.89
英語saurian sauna
日本語版トカゲのサウナ
吉田訳恐竜のサウナ
コメント英語の saurian から dinosaur を連想するのは簡単だが、 日本語のトカゲから恐竜は連想できない。したがって、「恐竜」とはっきり訳すべきである。

場所日本語版 p.109、英語版 p.91 : 10 節題名
英語The solar system swing
日本語版太陽システムの揺らぎ
吉田訳太陽系のユラユラ

場所日本語版 p.151、英語版 p.124 ; 図の中の説明と図のキャプション
英語ice sheet surges
a Heinrich event surge occurs
日本語版氷床が殺到する
ハインリッヒ事象の大殺到が起き
吉田訳氷床が崩壊して氷山が大量に流出する
ハインリッヒ事象で氷床が崩壊して氷山が大量に流出する
コメントsurge を無理に一語で訳そうとして、「殺到」などという 不適切な訳語にして意味が通じなくなっている。良い訳語がないときは、 長くなっても良いから内容をはっきりさせるように訳すべきである。

場所日本語版 p.162, 163、英語版 p.133, 134
英語radiation
日本語版放射線、光線
吉田訳放射 or 輻射
コメント「放射線」は、高エネルギーの粒子線や電磁波を指すのでまずい。 「光線」なら意味は正しいから良いけど。訳者は「放射」や「輻射」ということばを知らないのであろう。

場所日本語版 p.172、英語版 p.142
英語Buffalo, New York and Erie, Pennsylvania
日本語版バッファロー、ニューヨーク、エリー、ペンシルベニア
吉田訳ニューヨーク州のバッファロー市やペンシルベニア州のエリー市
コメントちょっと地図を確かめればすぐにわかること

場所日本語版 p.172、英語版 p.142
英語forty-below
日本語版摂氏4.4度を下回る
吉田訳「零下 40 度」の
コメントforty below は forty below zero 、すなわち零下40 度のこと。 訳者は華氏40度以下のことだと思ってしまったらしいが、それなら below-forty のはず。 零下 40 度は華氏でも摂氏でも同じという特別の温度である。