クリプキ   ことばは意味を持てるか

飯田隆著
シリーズ・哲学のエッセンス、NHK 出版
刊行:2004/07/25
名古屋栄の丸善名古屋栄店で購入
読了:2004/09/30
本書はクリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」の 解説書である。私は、クリプキの上記の本は読んだことはないものの、 クリプキのプラスやクワスなどという話は前から聞いていた。 でも、何のための議論なのだか良く分かっていなかった。 この本を読んでだいたい分かった気がする。ただ、良く分からない 議論も含まれていて、非常に明快とは言えない。

私が一番良く分からなかったのは「事実言明」ということばを 一通りの意味で使っていないように思える点だ。あるときは、 「事実を用いて証明できる言明」の意味で使われているようであり、 あるときはまさに「事実である言明」の意味で使われているようだ。 その事実という言葉に関連して、「世界に関する事実」と 「われわれの態度」を対照しているのも気になる。われわれは 世界の一部ではないのか?というツッコミを入れたくなる気分を禁じ得ない。

忘れないうちに以下にサマリーを書いておく。私に理解できない議論は省き、 多少元の本とは異なるアレンジをしてある。


summary

クリプキは、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」に独創的な解釈を与えた。 それが「ウィトゲンシュタインのパラドックス」である。この解釈は、 おそらくウィトゲンシュタイン自身が考えていたことと違うので、 解釈というよりはむしろ、「哲学探究」を出発点としてのヒントにして クリプキが独自に考察したことがらというべきである。

「ことばに意味はあるか?」という懐疑論

クリプキは、まず「ことばは意味を持てない」という懐疑論を考えた。 より正確に言っておけば、「単語の意味は、それを使用している個人の 経験を根拠にしただけでは確定できない」ことを示した。戦略は、 まず、一点突破(ある一つの単語が意味を確定できないことを示す)してから、 それを敷衍して全面撃破(その論法があらゆる単語に応用できる)である。

まず、「足す」ということばの意味に疑問を呈する。ただし、世の中の他の 単語の意味はすべて確定していると思って良い。A 氏は 57 以上の数を「足し」 たことがないとする。心の中でも「足そ」うと思ったことさえないとする。 もちろん、57 は一例であって、どんなに大きな数字でも良い。

疑い深い B 氏が問う:「57 足す 68 は?」と。A 氏は「125」と答える。 すかさず、B 氏は「5」が正解だと言い張る。そして、「足す」が「プラス」で あって「クワス」ではない証拠が挙げられますか?と言う。 「クワス」とは、57 以上の 2 つの数字の「クワス」がいつでも 5 を与えるという 演算である。A 氏はかつて、57 以上の足し算をしたこともしようと思った こともないので、「足す」が「プラス」であるという証拠を挙げることはできない。 「足す」のアルゴリズムが「プラス」のアルゴリズムと同じだと理解している と言ったところで、「足す」のアルゴリズムが「クワス」のアルゴリズムと 同じでない証拠を挙げよと言われればおしまいである。

以上により「足す」の意味は、その話者の経験からは確定できないことが 分かった。この論法はいかなる単語にも敷衍できるので、 あらゆることばの意味をその話者は確定できない。

懐疑論の解決

上の懐疑論をどう克服していくかが次の問題である。

クリプキの解決は、「話者は「足す」を「プラス」の意味で使った」という 言い方が誤りであるとするものである(懐疑的解決)。意味は話者だけの 問題ではなく、社会全体の中で確定するものである。だから、上の懐疑論は 成立しない。意味は、話者以外の人が話者の言葉を受け入れることによって成立する。

一方で、この本の著者は、「証拠を挙げよ」と言うこと自体が誤りなのではないか という見解を述べている。考えていることにいちいち証拠なんてあるわけ ないじゃないの、というわけである。ただし、であれば「証拠がなくても 話者は使っている言葉の意味が確定できるか」という大きな問題が残ることを 認めている。


私の結論

結局のところ、ことばの意味というのがどのようにして確定してゆくのかは、 社会のダイナミクスと個人の脳の働きとの相互作用(合わせて脳集団の相互作用) の中で理解していけば良いことになるだろう。個人だけを調べても わからないだろうし、社会だけを見ていてもわからないだろう。