私が一番良く分からなかったのは「事実言明」ということばを 一通りの意味で使っていないように思える点だ。あるときは、 「事実を用いて証明できる言明」の意味で使われているようであり、 あるときはまさに「事実である言明」の意味で使われているようだ。 その事実という言葉に関連して、「世界に関する事実」と 「われわれの態度」を対照しているのも気になる。われわれは 世界の一部ではないのか?というツッコミを入れたくなる気分を禁じ得ない。
忘れないうちに以下にサマリーを書いておく。私に理解できない議論は省き、 多少元の本とは異なるアレンジをしてある。
まず、「足す」ということばの意味に疑問を呈する。ただし、世の中の他の 単語の意味はすべて確定していると思って良い。A 氏は 57 以上の数を「足し」 たことがないとする。心の中でも「足そ」うと思ったことさえないとする。 もちろん、57 は一例であって、どんなに大きな数字でも良い。
疑い深い B 氏が問う:「57 足す 68 は?」と。A 氏は「125」と答える。 すかさず、B 氏は「5」が正解だと言い張る。そして、「足す」が「プラス」で あって「クワス」ではない証拠が挙げられますか?と言う。 「クワス」とは、57 以上の 2 つの数字の「クワス」がいつでも 5 を与えるという 演算である。A 氏はかつて、57 以上の足し算をしたこともしようと思った こともないので、「足す」が「プラス」であるという証拠を挙げることはできない。 「足す」のアルゴリズムが「プラス」のアルゴリズムと同じだと理解している と言ったところで、「足す」のアルゴリズムが「クワス」のアルゴリズムと 同じでない証拠を挙げよと言われればおしまいである。
以上により「足す」の意味は、その話者の経験からは確定できないことが 分かった。この論法はいかなる単語にも敷衍できるので、 あらゆることばの意味をその話者は確定できない。
クリプキの解決は、「話者は「足す」を「プラス」の意味で使った」という 言い方が誤りであるとするものである(懐疑的解決)。意味は話者だけの 問題ではなく、社会全体の中で確定するものである。だから、上の懐疑論は 成立しない。意味は、話者以外の人が話者の言葉を受け入れることによって成立する。
一方で、この本の著者は、「証拠を挙げよ」と言うこと自体が誤りなのではないか という見解を述べている。考えていることにいちいち証拠なんてあるわけ ないじゃないの、というわけである。ただし、であれば「証拠がなくても 話者は使っている言葉の意味が確定できるか」という大きな問題が残ることを 認めている。