本書は、東海地震に対する警告を言い始めて、現在の東海地震への警戒対策のきっかけを作った 著者による一般向けの著書。とくに第1章・第2章の南関東の地震の歴史や 第4章の南関東の地震テクトニクスの話、第5章IIIの駿河湾の東海地震説の解説は、 著者の最も専門とされるところで、非常に読み応えのある内容になっている。 第5章IIIを読むと、駿河湾地震説の科学的背景と現状がコンパクトにわかって良い。 ただし、第3章の地震の基礎知識の解説は、短いところにいろいろ詰め込みすぎて 少しごちゃごちゃしている。
著者は最後の第6章で、首都圏の過密の危険性を指摘し、首都一極集中の緩和と地方分権 とを訴えている。地方分権は最近では政治的にも進められようとしているが、実質的には 中央が権限を手放さないらしく、うまくいっていないように見える。
本書はほぼ 10 年前、兵庫県南部地震の前に書かれたもので、その後の展開はこの本に 予想されている通りではないことがある。この本では、地震の活動期がまもなく 南関東に来ることが予想されている。ところがまだそれは訪れていないようである。 その重要な表れは、1998±3 年に起こると予想されていた小田原地震がまだ起こっていない ことにある。この地震は、私が学生だった 10 年余り前からもうすぐだといわれていながら、 いまだに起こっていない。理由は、この本にも触れてあるように、1923 年の大正関東地震の ときの歪の解放が大きかったせいかもしれない。あるいは、まもなく小田原地震が 起こったとしても、この本の予想に反して、それが南関東の活動期の始まりにはならないかもしれない。
一方で、この本であまり触れられていない西南日本のほうは、兵庫県南部地震以来、 活動期に入ったようである。現在、中部地方に住んでいる私としては、この本で 扱われているのが、南関東に偏りすぎているのが少し不満なのではあるが、そこまで 求めるのは欲張りすぎというものかもしれない。ただ、西南日本の活動期と南関東の 活動期の関連は気になるところだ。
とき | 地震 | 背景・影響など |
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1586/01 | 天正地震 (M7.8) | 北陸から飛騨、畿内に及ぶ巨大地震 |
1596/09 | 慶長の別府湾での地震 (M7) | 瓜生島沈没伝説あり。 中央構造線に関係しているかもしれない |
1596/09 | 慶長の伏見桃山地震 (M7.5) | 別府湾の地震の 4 日後。 中央構造線に関係しているかもしれない |
1605 | 慶長地震 (M7.9) | 南海トラフ沿いの津波地震。 1586,96 年に続けて内陸で大地震が起こったために、すべり速度が遅くなったのかもしれない |
1633/03/01 | 寛永小田原地震 (M7+) | |
1703/12/31 | 元禄関東地震 | 大正関東地震より少し大きな相模トラフ沿いの地震。 南関東の大地動乱の時代の終わり:以後 150 年間、江戸は静穏期 |
1707 | 宝永地震 | 日本史上最大の駿河・南海トラフ沿いの地震 |
1782/08/23 | 天明小田原地震 | 1-2 時頃と 19-20 時頃 (M7.3) の二連発 |
1853/03/11 | 嘉永小田原地震 (M7) | 南関東の大地動乱の時代の始まり |
1853/07/08 | 黒船来航 | |
1854/07/09 | 伊賀上野・四日市・笠置山地の地震 (M7.2, M6.7, M6.8) | |
1854/12/23 | 安政東海地震 (M8.4) | ロシアのプチャーチンのディアナ号が下田湊で被災 |
1854/12/24 | 安政南海地震 (M8.4) | 東海地震の 30 時間後 |
1855/11/11 | 安政江戸地震 (M6.9) | 都市直下型地震。江戸で約 1 万人の死者 |
1880/02 | 横浜で地震 (M5.5-6) | 日本地震学会創設 (1880/04) のきっかけ |
1891/10/28 | 濃尾地震 (M8.0) | 最大級の内陸地震。震災予防調査会発足 (1892) のきっかけ |
1894/06/20 | 明治東京地震 (M7弱) | レンガ構造物、煙突の崩壊多数。 死者は東京で 24 人、川崎・横浜で 7 人 |
1894/08 | 日清戦争開戦 | |
1895/01/18 | 関東地方一円の地震 (M7.2) | |
1905-06 | 大森・今村論争勃発 | |
1912-14 | 伊豆大島三原山の噴火活動 | |
1915/11/12-16 | 房総で群発地震 | これを機に大森・今村論争再燃 |
1921/12/08 | 茨城県南西部で地震 (M7.0) | |
1923/09/01 | 関東大地震 (M7.9) | 房総半島南端部、三浦半島、相模湾周辺で震度 7。 東京では火災で 5 万 2 千余の死者。横浜の死者は 2 万 6 千 6 百余。 死者・行方不明の合計は 14 万 3 千弱。 |
1925/11 | 東京帝国大学地震研究所設立 | |
1929 | 関東大地震の余震的活動の終息 | 南関東の大地動乱の時代の終わり |
1944/12/07 | 東南海地震 (M8.0) | 濃尾地震の影響で駿河湾の歪が緩和され、 駿河湾ですべりが起こらなかったとする考えがある |
1946/12/21 | 南海地震 (M8.2) |