著者は、ポストモダンの思想家たちが、科学をろくすっぽ理解もせずに、 科学用語を意味もなく使っていることを、嫌というほど例を挙げて説明している。 驚嘆するのは、その引用の幅広さだ。著者が指摘しているように、引用されている 部分は、ひどく意味不明なものが多い。ふつうの理系人間なら、そんな文章の 詰まった本は、批判しようなどという気を起こす前に「難しげだ!」と思って 投げ出してしまうのが普通だろう。そういう文章をよくこれだけたくさん集めて 読んだものだ。とても常人には真似のできない技である。
ポストモダン思想家に好かれやすい概念として、 「カオス」と「ゲーデルの定理」が如何に誤って濫用されるかが、 とくに章を改めて紹介されている。カオスが濫用されるのは、物理学者や数学者が 革新性を宣伝しすぎたせいもあるかもしれないけれど。革新的と言っても、 別に従来の科学を否定するようなものではない。
こういった科学用語の誤用の例を見て行くことの効用の一つは、 読者が今までよりも自信を持って「王様は裸だ」と言えるようになることだと思う。 有名だが難しげな哲学書を読むと、大抵の人は(私も含めて)、理解できないのは 何か自分の勉強不足か頭が悪いせいだと思う。が、そうではなくて、 理解できないのはそもそも書いてあることがおかしい場合もあるということを 実にはっきり示してくれている。
本の内容に戻ると、いわば本題は、第4章における相対主義批判と、最終章における ポストモダニズム批判である。第4章は、相対主義を常識的な立場から どう批判していったら良いかのお手本になる。まず、独我論や極端な懐疑論は 論駁不可能だが、だからといってその考えを受け入れる理由はないとする。 ふつうの感覚を近似的に信頼することは日常生活には必要なことだし、 科学もその延長である。科学の合理性も信頼するに足るものだ。 絶対的な合理性基準が存在しないことは確かだが、それは科学が宗教と 同程度に不合理だということを意味しない。観察の理論負荷性は、 観察結果が理論から生まれると言っているわけではない。 パラダイムの通約不可能性も、パラダイムが実験結果を決めると言っている わけではない。つまり、現実の証拠は当然科学にとって基本的に重要なのであり、 科学の方法は現実を最も合理的に扱っている。相対主義的に科学を見ようとすると、 その見方自体も相対化されざるを得ず正当化できなくなるという自己矛盾に陥る。 また、真実は存在しない、という類の極端な相対主義を信じると、 たとえば犯罪捜査ができなくなるという実際的な弊害も出てくる。
最終章のポストモダニズム批判では、結局のところ、非合理主義が 世の中を席巻することが危惧されている。相対主義が極端になると、 宗教原理主義も教条主義も「何でもあり」になってしまうからだ。