関東大震災 大東京圏の揺れを知る
武村雅之著
鹿島出版会
刊行:2003/05/30
武村氏講演会場で購入
読了:2004/07/19
著者の武村氏が名大の講演会シリーズ「防災アカデミー」(2004/07/13) で講演したときに
購入したもの。講演が非常に興味深かったので、ついつい本を買ってその勢いで読んだ。
著者は、関東大震災について調べなおして、広く言われていることが必ずしも正しくないことを
突き止めた。そのダイジェストが講演で聴けて、その集成がこの本というわけだ。
下にまとめたような著者による新しい知見がいくつも入っている。
著者は最後のところで過去のデータを受け継ぐことの大切さを訴えている。
たとえば、煤書きの地震記録は、今の地震学者は見向きもしない人が多いが、
それを大切にしておかないと、関東地震のような貴重な記録が失われる。
著者のことばは本当にもっともなのだが、同時に思うのは、知識は時々刻々
膨大に増えていっているので、それを全部残そうとするのは容易ではないということだ。
したがって、消費されて捨てられる知識も当然かなり多いのである。
何を残すべきかは一般に非常に悩ましい。私は、ものが捨てられなくて部屋の中を
すぐにカオスにしてしまう人間なので、何を捨てるべきかは常に悩みである。
この本と講演で語られていた大正関東地震に関する知見のメモ
講演で話されたが、本に書かれていないことも含む。
大火災の要因
関東大震災では火災で多くの人が死んだことは良く知られている。一般には、
昼食時に地震が起きたから大火災になったといわれているが、それはものごとの
一面しか見ていない。それは、同じ東京でも山手の方は大火災にならなかったことからもわかる。
考えないといけない大事な要因として以下の二つがある。
- 大火災が始まった地域は、家屋の倒壊率が高い地域と一致する。ともかく家屋が
潰れないことがまず大事なのである。
- 当時、能登半島付近に台風崩れの熱帯低気圧があって、東京には強い南風が吹いていた。
被害の大きさに関すること
関東大震災では、火災による死者が多いことは有名だが、仮に火災が無かったとしても
1万4千人くらいの人が死んでいたことは知っておくべきだ。うち、
住宅の倒壊による死者が1万1千人だ。これだけで、兵庫県南部地震の死者数を上回っている。
一般には死者・行方不明者が 14 万人と言われているが、元の資料に当たってみると、
2重カウントがあって、実際は 10 万 5 千人というのが正しい。
全潰・全焼・流失家屋数も、今村明恒による 57 万 6262 がふつう引用されているが、
元の資料から重複を避けるように数えなおしてみると、29 万 3387 棟とするのが良いであろう。
大きな違いの原因は二つあって、(1) 後者は棟単位で、長屋は1棟と数えているのに対し、
今村のには世帯数の集計が入っていることと、(2) 後者は住家のみで、非住家を除外しているのに対し、
今村のには両方入っていることである。非住家(倉庫など)は、住家より一般に強度が劣るので、
同列に統計に入れるのはあまり望ましいことではない。
震源に関すること
一般にはマグニチュードが 7.9 ということになっているが、これは根拠に乏しい。
調べてみると100 km 離れた東京が震度 6 ということだけが根拠らしい。改めて
振り切れていない記録が残っている仙台、山形、岐阜、徳島、長崎のデータを基に
マグニチュードを決めなおすと 8.1±0.2 程度であった。結果的に、従来の M7.9 も
そう違ってはいなかった。
体験談や地震記録から、本震には強いイベントが2回あったことが推測される。
第1イベントは震源に近い小田原直下で起こり、それから10秒余り後に三浦半島の直下で
第2イベントがあったようだ。大地震では、このように複数のアスペリティが動くのは
珍しいことではない。
本震(M8.1 9/1 11:58-59) 直後に強烈な余震が2度あった。
初めのは 12:01 ころ東京湾北部で起こり M7.2、
次のは 12:03 ころ山梨・神奈川・静岡の県境付近で起こり M7.3、
といずれも非常に大きなものだった。そのため南関東は 5 分にわたって
強い震動にさらされることになった。この後にもさらに4つ、M7 級の
大きな余震があった。関東地震は、大きな余震の多さでは超一級だ。
東京の地盤に関すること
沖積層が当然揺れやすい。大正関東地震の震度分布を見るとそれがよくわかる。
まず、東京周辺を大きいスケールで見れば、武蔵野台地と下総台地にはさまれた、
旧利根川と旧荒川の流域がそれにあたる。東京都で言えば、隅田川から東側の一帯である。
そこから北の埼玉県東部もその続きにあたる。
隅田川の西でも、地盤が悪く関東地震で震度が大きかった場所が何箇所かある。
(1) 浅草の北側、とくに吉原周辺:沖積層であると同時に、昔千束池という沼地だった。
(2) 丸の内谷から旧神田川流域(現在の地名では、日比谷、丸の内、神田神保町、水道橋と
続くあたり):昔の谷筋にあたる。(3) 日比谷から赤坂の溜池につながる谷筋:
溜池という地名がそもそも池があったことを物語る。(4) 芝公園の南西の麻布一の橋付近:
むかし古川沼という沼があったと考えられている。
土蔵の話のウソ
「土蔵は、山手では被害が大きいが、下町では小さい。これは、土蔵の固有周期が短いせいである。」
という話がまことしやかに伝わっているが、これはウソである。元の資料を当たってみると、
下町はその後の火災のためにデータがそもそも存在しないのだ。安政江戸地震の資料も参考にすると、
下町でも土蔵が多数潰れていたと見るのがおそらく正しい。