観念論ってなに?     オックスフォードより愛をこめて

冨田恭彦著
講談社現代新書 1758、講談社
刊行:2004/11/20
ふたば書房京都タワー店で購入
読了日:2004/12/12

観念論というのが「世界は心の中にあり、心の外にはない」という議論だと いうのは知っていたが、その源を私は良く知らなかった。 この本では、観念論の源のであるバークリの考え方を、とくにロックの 考え方と対比させてわかりやすく解説してある。 おかげで観念論がそもそもどういうところから出てきたかがよくわかって おもしろかった。ただ、少し不満を述べれば、こういう議論が現代では どういう意味があるのかがよくわからなかった。
以下、簡単なサマリー(プラス私のメモ)

ロックは、世界を次のように考えた。これは現代物理の世界観に近いところがある。 外界にあるものは、今で言う原子のような粒子(「物そのもの」)から構成される。 その粒子の集まりは、たとえば光と反応し、われわれの感覚器官を刺激して、 色のような知覚を生み出す。その結果の色は、単純な「観念」の一つである。 単純な観念が組み合わされると、たとえばテーブルのような「複合観念」が 心の中に生まれる。そのほかに、「関係」とか、ものの性質(たとえば三角形) とかも「観念」である。このように、世界を、粒子―観念―心の3つの関係で とらえるのがロックの世界観である。

これに対して、バークリは、直接的に知覚できない「物そのもの」を 導入するのは不純であるとして、心の外にある物を認めない。 物は、知覚されるからこそ存在するのである。本書では、このような バークリの論理の歪みを丁寧に解説してある。

バークリの議論の例には次のようなものがある。色は心の中の観念だよね? ―然り。色のない形など想像できないよね?―然り。だったら、形も 心の中の観念でしかないはずだよ。こんなふうにして、いままで外界にある とされていた性質をみんな心の中の観念にしてしまう。 本書によると、このような論理が歪んでいるところは、観念をすべて心像、 すなわち絵として心に思い浮かべられるものとしてとらえてしまっている点だ。 ロックの「観念」は心像にならないものも含んでいる。だから、バークリが 心像的観念理解に基づいてロックを批判したのは、不当なのである。

著者がバークリの考えの中で評価しているのは、記号的世界観だ。 世界には因果関係はなく、あるのは記号的な規則性だけだ。 自然科学者が自然法則と言っているものは、観念の間の記号的規則性にすぎず、 それを私たちの心に与えているのは神である。 こういう考え方はマッハ哲学などに引き継がれてゆくので、 現代的にも無視できない意味があるだろう。

本書の議論でわからなくなることは、「心」を現代的にどう とらえたら良いのかということである。ロックは「観念は知覚されないときは 存在するのをやめる」というふうに考えていたそうだ。つまり、心の中の 観念に関しては「観念論的」なのである。こういうのは現代の科学的知見に 鑑みればおかしい。脳の働きは、いつでもすべて意識されて いるわけではなくて、無意識の領域がかなりたくさんあるので、 脳の働きを「心」という一つの単語で片付けるわけにはいかない。 そういうことを著者がどう捉えたいのかが、本書ではいまひとつはっきりしない。