第2部と第3部は『論理哲学論考』の解説である。第4部では『哲学探究』、 第5部では『確実性の問題』の時代の思考を解明する。
『論考』は次の6つの思考期に分けられる
まず、背景の説明をすると、ここで扱われている「論理」とは、 当時ケンブリッジで研究されていたフレーゲの記号論理学のことである。 そのような「論理とは何か」が、ウィトゲンシュタインの問いの始まりである。 フレーゲは、命題論理と述語論理の体系を作った。命題論理は、命題間の論理的関係を扱い、 述語論理は命題内部の論理的構造を扱う。
『論考』の根本思想は、「言語は世界と論理形式を共有するがゆえに世界を記述できる」という ものである。たとえば言語で表される命題「秀吉は大阪城を築いた」がある。この命題の 骨格は X(x,y) と書ける。X は行為者 x が対象 y に及ぼす何かの作用である。x に秀吉を 代入し、y に大阪城を代入し、X に築いたを代入して文にすると上の命題になる。 一方で、「秀吉が大阪城を築いた」という「出来事」それ自体も X(x,y) という論理形式を 持っており、それゆえに言語が世界を記述できるのだというのが、上の『論考』の主張になる。
上の4つをもう少し詳しく述べる。
(1) 人間言語の極大性:人間の言語は、言語で語られうることをすべて語りうる。言い換えると、 人間の言語は、可能な最大の表現力を持っている、という主張である。序文の有名な 「およそ語られうることは明晰に語られうる」はこのことを表していると考えられる。
(2) 論理が言語の極大性条件であること:「論考」の言語思想の核心であるにもかかわらず、 実は「論考」には直接的な表現はない。「論理は超越論的 transcendental である (6.13)」 という言葉が間接的にこれを示していると解釈できる。論理は語りえない(次の (3))にも かかわらず、そもそも「語ること」を可能にする根本的条件である。
(3) 論理を語りえない:命題の論理形式は語りえない、という主張がなされている。しかし、 これは言語の表現力を恣意的に制限した結果に他ならない。ウィトゲンシュタインは安易な 神秘主義に陥った。
(4) 論理の世界性テーゼ:論理は世界の性質であるという主張。
要するに問題は、何が命題を単なる画像から区別するのかを確定することなのである。 (1914.12.2)と書かれている通り、実際は命題と絵画の違いこそが本当の問題である。
ウィトゲンシュタインの解決は、命題の集合は「論理空間」を構成するというものだ。 命題は論理空間上の点である。それらの点の間は論理定項によって つながっている。たとえば、ある命題を否定すると別の命題に移り、それをもう一度否定すると 元の命題に戻ってくる。このような性質を絵画は明らかに持たない。論理的推論は、 論理空間の中の安全なルートマップのようなものである。
論理空間は、すべての可能な思考からなる宇宙である。ウィトゲンシュタインにとって、 論理は世界そのものである。世界は、言語によって語られうる世界である。
論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界である。 (5.61)
「対象」は、単に辞書の見出しを列挙すれば良いものではない。たとえば「薩長」という語は 「薩摩藩」と「長州藩」に分析しなければならない。このようにして、問題は「単純な対象」は 何か?ということになる。単純であるという意味は、「分析的に単純」という意味と 「論理的に単純」という意味の2通りが考えられる。前者は、対象に即した単純概念で、 物質なら原子に分解して、さらにクォークに分解して、…という話になり、経験科学に よってのみ決められることである。それに対し、後者の論理的な単純概念は、われわれが 決めるものである。たとえば、「時計」というものがひとまとまりの「もの」だと 認定すれば、それは「単純な対象」である。ウィトゲンシュタインが考える「単純」は こちらの論理的な単純概念である。(なお、ラッセルの考える「単純」は前者であったため、 ラッセルの序文には誤解がある。)
しかし、そうすると、単純さは客観的には確定できない。それは話者が確定するものである。 たとえば、机から半分はみ出て落ちそうになっている時計があるときに、 「この時計は机の上にある」という命題が真であるとするかどうかは、 「私」が決めるより他は無い。このようにして、「私」の問題が現れる。
私の言語の限界が私の世界の限界である。 (5.6)
次のような対応が成り立っている。
言語が表現している世界 | 意味のある生という世界(生世界) |
論理という条件の下で世界は語りうるものとなる | 倫理という条件の下で生は意味あるものとなる |
論理は超越論的である (6.13) | 倫理は超越論的である (6.421) |
論理は語り得ない | 倫理は語り得ない(論理と同様の理由以外に 倫理が神と不可分であるがゆえに語りうる世界の外にあるがゆえに) (6.421) |
「神」こそが、「世界」の外にある「語り得ないもの」である。神に対しては、 信じることと祈ることしかできない。
自己の独立を保ち、自己の生を唯一無二のものとして生きるとき、われわれは 意味のある生を生きる。意味のある生を生きるということは、幸福に生きると いうことになる。
文句なしに幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。 そして今私が、なぜ私はほかでもなく幸福に生きるべきなのかと自問するならば、この問い それ自身が同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち幸福な生はそれが唯一の 正しい生であることを自ら正当化すると思われるのである。(『草稿』1916.7.30)
『論考』の「主体」には二通りあり次のような対比がある。二つの主体の関係は『論考』では 論じられていない。
言語的主体 | 倫理的主体 |
意味する私、語る私 | 意味ある生を生きる私、形而上学的主体、哲学的自我 |
『論考』5.6-5.62 | 『論考』5.621-5.641 |
言語的独我論「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」(5.6) | 宗教的独我論「「世界は私の世界である」ということを通して、自我は哲学の中に入ってくる」(5.641) |
言語には私的な部分がある。典型的には、「これ」という表現の意味は話者が決める。 | |
排他的:「私」は唯一無比である。 | 非排他的:「私」は祈りを通じて神との一致を望む。 他の「私」が同様であることを拒まない。 |
このうち、倫理的主体については、『論考』では描像が不明確である。 一方で「私」について語り、他方では「語りえない」(6.423) と議論されている。
さらに、意志と主体については、グローバルなものとローカルなものの2種類がある。 グローバルな側面は、「世界の隅々にまで、主体の生に関わる意味や意志が行き渡る」ということである。 これが宗教的独我論につながる。一方、ローカルな「私」は、日常的な「私」で、倫理や善悪に関わる。 『論考』では、ローカルな主体を十分に取り扱えず、世界から追放し封印してしまった。
思考し表象する主体は存在しない。 (5.631)
『探究』の時代は次の4つの思考期に分けられる
命題は現実との比較によって真偽を判定できる、という「検証」の考え方が取られている。 しかし、検証の概念は、後に『論考』の原理が解体されるにつれて姿を消す。
『論考』では、一方では論理を狭い意味(フレーゲ流の論理)で解釈し、一方では 対象の内的性質に立脚した「対象の論理」を認めている。『考察』期には、後者を 「文法」と呼ぶようになる。たとえば、算術は数の文法である。 「文法」概念はその後の思考においても重要な位置を占め続ける。
独我論に関しては、語ろうとしつつ語り得ないジレンマに陥り、曖昧な結果に終わっている。
ところが、たとえば「彼は4時に大学に来た」と言うとき、来たのが4時1分であるとき これが真か偽かは、話者にさえ断定できないだろう、ということに気付いてきた。 さらに進んで、曖昧さは日常言語の本質であるという認識が生まれてきた。
『考察』期には、ウィトゲンシュタインは、「理解」は決まった規則に従った計算であるという 考えを持っていた。ところが、TS213 期になると、そもそも決まった規則などは無いという立場に 変わってゆく。
『論考』のウィトゲンシュタインにとって、論理は経験的事実を言語で語るための 前提条件だったのだから、論理は経験に属さないと考えていた。すなわち反自然主義者であった。 ところが TS213 期から徐々に自然史的観点へと転換してゆく。 しかし、数学や論理学の規範的強制力を無視することには抵抗があり、自然史的観点をそう簡単に 採用するわけにはいかない。この問題の解決が、『探究』の思考の核心になる。
「言語ゲーム(Sprach Spiel)」の Spiel には、「ゲーム」と「劇」の意味がある。 「ゲーム」というのは原始的な言語モデルということである。「劇」というのは 生活の状況やその中での役割を指す。Spiel の概念にはそのような2つの意味が 絡まっている。後者から、言語と生との必然的な結びつきが強調されてくる。
「規則に従う」ことは「人間がその規則を選択した(規約主義)」ということではなく、 「他の可能性もあった(相対主義)」ということでもなく、「そうでなければならないという 規範性を持っていない(規範性に対する外的視点)」ということでもない。 人間であれば、他の可能性は無い。そうでない視点(人間の世界の外側)に立って見ることもできない。 人間にとって選択の余地は無いのである。こう考えることによって、数学や論理学は人間にとって ア・プリオリなものであると言うことができる。それはいわば原制度である。
こうした「制度」が生み出す特殊な環境をウィトゲンシュタインは「環境(Umgebung)」と呼ぶ。
ゲーム、言語、規則は制度である (MS164, RFM part VI §32)
われわれに理解を保証するこの反応は特定の状況、特定の生の形、 言語の形を制度的環境として前提しているのである。(MS124, RFM part VII §47)
たった一度だけ人が規則に従うということは不可能である。たった一度だけ報告がなされる、 たった一度だけ命令が下されるあるいは理解されるということは不可能である。 ―規則に従う、報告する、命令をする、チェスをする、これらは慣習(慣行、制度)なのである。 (『探究』§199)
ウィトゲンシュタインは次の2つの議論により私的言語が不可能であるとしている。
(1) 私的言語の正誤を決定する客観的な基準が存在しない。しかし、この議論は 言語が客観的でなければならないということを前提としている。それは最初から 私的言語が不可能であると言っているに等しく、的外れな議論である。
(2) 私的言語における感覚の命名は命名ではない。こちらの議論が重要である。 命名は制度だから、私的命名などというものは言語ごっこに過ぎない、と議論する。 このことから感覚が私的対象であるという考えも否定される。「感覚語」は 次のように解釈される。「私は痛い」は話者の感覚を記述しているのではなく、 痛みの「表出」である。言い換えれば、子供が泣くことの代わりである。 そして「彼は痛い」は同情の表出である。「痛み」は感覚の名ではない。 「痛い」に関わるさまざまの場面を体験してマスターする概念である。 「痛み」とはそのような複雑な劇の題名である。そして、これこそが「言語ゲーム/劇」概念の 真価である。「言語ゲーム」概念は『探究』の冒頭で述べられた概念から だいぶん拡張されて重層的になっていることに注意しなければならない。
誰かが私に「子供たちとゲームをしてやってくれ。」という。私は彼らにサイコロ賭博を教える。 するとその人は「そんなゲームをしてくれといったんじゃない。」と言う。 この人が私に頼んだとき、サイコロ賭博を除外するということが彼の心に浮かんでいた 必要があるのか。(『探究』)意図は思考と違うことをまず確認しておく。サイコロ賭博を除外することは私の「意図」ではあるが、 私はそんなことを予め思いつきもしなかったので、私はそれを「思考」したのではない。 このことからわかるように意図は状況の中に埋め込まれている。 これを、言語が制度であるという以上に状況依存性が強いと言う意味で、重制度性と呼ぶ。
規則は、確実で自明なものでなければならない。これは個人の心理状態ではない。 それは気分によって変わるようなものではなく、命題の論理的機能の認知そのものである。 しかし、確実さにはいろいろな種類がありそうである。「2×2=4」と「私は60歳だ」 は違った確実性であろう。これは『確実性』の思考につながってゆく。
ムーアは次のような命題を証明無しに確実なものと考えた。
ここに手がある。伝統的に哲学において確実な命題と考えられてきたのは、数学的命題と自己の意識状態を 記述する命題である。上のムーア命題はこれにあてはまらない興味深いものである。 このような命題を深く考えたことがウィトゲンシュタインを『確実性』の思考に導いた。 3つの問題がある。(1) ムーア命題の確実さの意味は何か? (2) 「私は…を知っている」 の…にムーア命題を入れたもの(ムーア言明)は不自然な気がする。これは妥当な表現か? (3) ムーア言明が妥当だとすると、これはどのような役割を果たすのか?
地球は私が生まれる前から存在した。
私は月に行ったことがない。
あれは木である。
私は今椅子に座っている。
(吉田注)ここのところで「論理命題」と「論理規則」を著者が区別して使っているのか どうか本当はよく分からない。あるところでは区別しているようにも見えるし、同じ意味に 使っているように見えるところもある。
このような思考は相対主義に導かれがちであるが、ウィトゲンシュタインはそうではない。 最も確かな知識に根拠はない。しかし、言語実践によって確実に知りうるものなのである。 ただし、もちろん、異なる世界像と言語ゲームが存在することを否定するものではないし、 それを「誤り」と言いうるものでもない。それに関する解答は与えられていない。
確実性には2種類ある。それを私的確実性と公的確実性とよぶ。私的確実性とは、 たとえば「ここに手がある」の確実性で、「私」という一個人に関するものである。 一方、公的確実性は「地球は私が生まれる前から存在した」の確実性で、 知的共同体の知識である。この区別は『確実性』の第4部の終わりになって ようやく明確な形を取る。
さらに「私は知っている」の意味を考えてゆく。言語ゲームをマスターするということは、 単に言葉の運用ができるということではない。たとえば、名を知るというのはどういうことか? 名前を呼びかけられて答える、あるいは名前を呼びかける、といったことは犬でも訓練すれば できるようになる。名を知っているというのは、「名」という概念を持つということである。 それは、「私はあの子の名前がルーであることを知っている」と言えることである。 その意味で「私は知っている」は言語が言語であることを示す源なのである。さらに、 「私は知っている」は「私」の根源でもある。それはこの言明は「私」の概念を持っていることが 前提になっているからである。
ところで「私は知っている」にはいろいろな使い方がある。ムーア言明の 「私はここに手があることを知っている」は特殊で、ふつうは誰にも伝える 必要もない自明なことをことを述べている。先の私的確実性と 公的確実性の区別に対応して、私的論理と公的論理が存在する。 先のムーア言明は私的論理を表現している。ここに含まれる「私」は他から独立して 判断する絶対的な「私」であり、私にとって譲れない言明をしている。 これが魂を持つ「私」であり、言語ゲームの担い手である。