近代能楽集

三島由紀夫著
新潮文庫 み 3 14、新潮社
刊行:1968/03/25
名古屋シネマテークで購入
読了日:2005/12/13
映画「みやび 三島由紀夫」を見たときに記念に買ったものを読んだ。 夏にこの中の「卒塔婆小町」と「弱法師」の舞台も実際に見たので、 そのうち読もうと思っていた作品集である。

これらの作品は、能の枠組みだけ借りて、自由に作られた現代劇である。 能で良く使われる幻影とか亡霊とか狂気とかを登場させることで、 美意識を効果的に演劇化することに成功している。 語られるのは、教訓でも社会問題でもなく、美意識そのものであるから、 これらの作品は絵画や彫刻を見るように見られなければならない。 元々の能とは主題が変わっているので、元々の能を知っている人は 期待される結末を裏切られることになる。

まず、実演を見たものから書いていく。「卒塔婆小町」は、 老いた小町と若い詩人が鹿鳴館の舞踏会の幻影の中に入り込む。 そこで、小町は若い姿となり、詩人は深草少将になる。 詩人は、小町に「君は美しい」と言ったがために死ななければならない。 いかにも現代劇らしい美意識に満ちている。最初と最後の

老婆 ちゅうちゅうたこかいな
が印象的。一方、能の「卒塔婆小町」は、僧と老いた小町とのやり取りや、 深草少将に憑かれた小町を描くもので、全く別の物語になっている。

「弱法師(よろぼし)」は、東京大空襲で盲となった俊徳が、育ての親の川島夫妻と 実の親の高安夫妻を振り回し、その後空襲の幻を見る話。 空襲の幻影が美しい。さらに、盲は弱いという先入観(「弱法師」の名も ヨロヨロ歩くことから来ている)を見事に裏切って、親を操る。

俊徳 母親と呼ばれたかったら、僕に同意しなくちゃいけません。
この不道徳で鋭くギラギラした美がこの作品の命。 一方、能の「弱法師」は、盲になった俊徳丸が父と再会する話で、 俊徳丸伝説に基づくもの。伝説では、高安は俊徳丸の出身地の名前。

その後は掲載順に見てゆく。 「邯鄲」は、元の能は「邯鄲の夢」の言葉で知られる通り、青年廬生 が栄華のはかなさを知る物語。三島の「邯鄲」はそれの逆を行って、 人生に投げやりな青年次郎が、枕の夢によって生きる意志を得る。

「綾の鼓」は、途中までは元の能と同じ。老人が若い女性(華子)に恋をする。 で、音のでない綾の鼓を鳴らして見せたら思いを叶えさせると言われる。 もちろん鳴らないので、老人は恨んで身を投げ、亡霊となって女性に現れる。 最後が大きく違う。

華子 (夢うつつに)あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば。

「葵上」は、三島劇でも能でも女(三島劇では六条康子、能では 六條御息所)の生霊が別の女(三島劇では葵、能では葵上)を苦しめる物語。 能では最後は六條御息所の生霊は成仏するのだが、三島劇では最後に葵が 死んでしまう。大元の源氏物語では、葵上はやはり死んでしまうから、 能の抹香臭さを避けて原典に回帰したのであろうか。性的抑圧や情念が噴出する。

能の「班女」は、男女の再会物語なのに、三島劇では再会したにも関わらず 狂った女は男を認めない。

花子 いいえ、よく似ているわ。夢にまで見たお顔にそっくりだわ。 でもちがうの。世界中の男の顔は死んでいて、吉雄さんのお顔だけは生きていたの。 あなたはちがうわ。あなたのお顔は死んでいるんだもの。

能の「道成寺」では、娘が鐘に入って毒蛇となるのに対し、三島劇では、 娘が梵鐘の浮彫りがある衣装箪笥に入る。しかし、硫酸を自分の顔にかけようと していたのに気が変わって、そのままの顔で生きる決心をする。

「熊野(ゆや)」は、能と同じような筋でありながら、実は主人公のユヤは けっこうな嘘つきで、パトロンの宗盛はそれを知りつつ楽しんでいるという まあ悪徳の美を全面に出している。