靖国問題

高橋哲哉著
ちくま新書 532、筑摩書房
刊行:2005/04/10
名大生協で購入
読了日:2005/07/02

哲学の専門家が靖国問題の分析を明快に行っている。いかにも 哲学者らしいのは、事実を大量に並べるというよりは、感情論を排し、 靖国神社を支える論理を丁寧に検証してその破綻を指摘するという方法で 議論がなされている点である。ごちゃまぜに議論されがちな論理が整理されて、 すっきりする。

もうひとつ哲学者らしい大きな特徴は、プラクティカルで妥協的な 解決策を出すことが目的ではない点だ。たとえば A 級戦犯分祀は 問題の根本的な解決にならないとしている。結局、戦没者顕彰施設にしろ 追悼施設にしろ、施設より施設を利用する政治の問題だ、ということで 議論が結ばれる。それで、靖国問題の解決は、靖国神社を、単に そこに祀られたいと思う遺族が望む戦死者だけを祀る一宗教法人に すること(当然、政教分離から首相や天皇は参拝しない)ということで 計られるべきだとする。国立追悼施設は必要ではなく、 それよりは歴史観や政治姿勢をはっきり平和を目指すものにする方が重要だ、 としている。

これを読んでいくと、近代的な戦争の抱える問題点のひとつがはっきり 見えてくる。近代的な戦争は、多数の死んでくれる人を必要とする。 近代的な戦争は、一人では決して戦えないし、個人個人の戦闘能力が 高くても(たとえば格闘技が強くても)破壊的兵器の能力には勝てないので、 生死が確率的に決まるようなところがある。そういう中で死ぬかもしれない 兵隊を集めるためには、何らかの洗脳が必要になる。防衛戦争の場合は、 比較的理屈が立ちやすいので論理的説得も可能だが、そうでないときには 金か宗教かくらいしかなさそうだ。特に貧乏な国は金では釣れないから宗教を使う。 言い換えれば、戦没者顕彰施設は安上がりな傭兵装置だ。

もともと動物にも家族や自分を守るために戦う本能はあるだろう。 ところが、近代的戦争のように規模が大きくなると、普通の本能で 対応できる範囲を越えているので、本能が知っている家族や自分を 肥大化させて国家に転化する装置が必要になる。それが「愛国心」を 通じた顕彰という宗教である。

以下は、サマリーと感想。

第1章「感情の問題」
靖国神社は、戦死者を追悼ではなく顕彰することによって、 戦死の悲しみを喜びに変える「感情の錬金術」を行う場所である。 死のおぞましさは隠蔽され、聖なるものへと昇華される。そのことによって、 戦場で死んでくれる兵隊を確保するのが目的の施設であった。
第2章「歴史認識の問題」
靖国問題を A 級戦犯合祀問題に限るのは、問題の矮小化であり、 単に A 級戦犯を分祀して問題が落ち着いたとすれば、それは政治決着に過ぎない。 本来の問題は、兵隊を顕彰することで、支那事変以前から続く植民地支配を 支え続けてきたことである。
吉田感想:今の靖国問題では、問題矮小化を承知のうえで、どう 政治決着を付けるかも重要なことだと思うが、それは哲学者である著者が 考えることでもないのだろう。ただ、中国や韓国がそういう「大人の知恵」を 持っているのに気付きもしない人が多いのは、困ったものである。
第3章「宗教の問題」
靖国神社はいろいろ特殊な面を持った宗教であることがわかる。 (1) 遺族からの合祀取り下げ要求を拒否し続けるのは、靖国に祀るのが 「天皇の意思」だからという理由である。(2) 政教分離問題は 長い間問題になってきている。首相の公式参拝を合憲とした確定判決は これまで一つもない。これまでの判決では、違憲としているか、 判断を避けているかのどちらかである。小泉首相は、全く非論理的に これを無視し続けている。(3) 靖国神社を非宗教化しようという 考えも以前からあった。しかし、伝統的な祭祀儀礼を維持しようとする限り、 それは不可能である。(4) ところが、明治時代以来の戦前においては、 神社は国家の祭祀であり宗教ではないとする「祭教分離」という考え方が 取られた。これは仏教やキリスト教などを宗教であると認めつつ、 神道は宗教とは別物とするということで、仏教徒やキリスト教徒まで含めた 日本人全体を神道に絡め取る巧妙なからくりであった。靖国を非宗教化しようと いう考えは、この戦前の負の教訓に余りにも無自覚である。
第4章「文化の問題」
靖国は日本文化の問題で、他国がとやかく言うものではないということを 言う人がよくいる。しかし、この論理は最初から破綻する。明治以前に 日本に靖国のようなものはなかったのだ。敵側を排除するという点では、 むしろ靖国は近代諸国家の慰霊施設、たとえば、韓国の国立墓地・顕忠院や アメリカのアーリントン墓地の方に似ている。それは、近代国家の 政治的意志の反映以外の何ものでもない。
第5章「国立追悼施設の問題」
無宗教の国立戦没者追悼施設を作ったら良いではないかという議論がある。 しかし、これにも問題がある。この施設にはいくつかの可能性がある。 福田康夫官房長官の私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等 施設の在り方を考える懇談会」の報告書の案はどうだろうか? これは、兵隊に限らず、民間人も外国人も追悼の対象である。しかし、 この報告書は歴史認識を曖昧にしているし(たとえば A 級戦犯をどうするのか)、 もっと問題なのは、戦後については「日本は憲法があるから戦争をしないので」 平和を脅かした人は追悼の対象にならないとしていることだ。たとえば、 今イラクのゲリラを自衛隊が殺したとしてもそれは追悼の対象とならない。 これでは、靖国の論理と結局同じになる。実は、英霊祭祀儀礼は、日本に 限ったものではない。近代ヨーロッパではフランスに始まっているし、 古代ギリシャ・ローマでも見られる。要するに、国のために死ぬ人を 作るために、戦争する国家は戦没者顕彰儀礼を必要としているのだ。 他のタイプの追悼施設を提案する人もいるが、それも政治が欲すれば、 いつでも戦死者顕彰施設に転化しうる。したがって、根本的な問題は、 政治が平和を指向することであり、施設がどうあるかということではない。