もっとも第II部の主張自体は、私にもそれなりにその通りだと思える点も 多く、その点では興味深い。たとえば、リサイクルの問題点、 地球温暖化問題の問題点の指摘などだ。とはいえ、論理が荒っぽいし、 紙面の制約もあろうが、主張の裏付けや定量的な取り扱いがあまりなされて いないので、説得力が弱い。また、開放系の熱力学をいかにも他の人が知らず、 自分だけが知っているように書きすぎているという問題もある。 さらに、後で挙げるような細かいアラもいろいろある。
まず、p.57 で、プリゴジンが作った式は微分で書かれた形式なので 巨視的現象を扱うのには不適切で、50 年間マクロに使われて 来なかったと書いてある。しかし、以下の理由でそんなはずはない。 第1に、微分形を積分すれば積分形(巨視的な形)はすぐに得られるし、 第2に、少なくとも 1970 年代に地球現象に用いられた例を私は知っているし (たぶんもっと前からあるだろう)、第3に、現在でもスタンダードな 教科書として知られている de Groot and Mazur の Non-Equilibrium Thermodynamics も 1960 年代に出版され、それまでの研究の蓄積も たくさんあることを示している。
4.2 でエントロピーに関する誤解を大多数の人がしているような 書き方がしてあるが、これは単に誤解をしている人は誤解しているという だけの問題ではなかろうか。大袈裟に書き過ぎだと思う。 とくに 4.2b 節で書いてあることは、ありもしない敵を攻撃しているかのようである。 鉄と酸素が反応して酸化鉄になる反応は、ふつうの教科書に書いてある通り、 定温定圧条件ではギブスの自由エネルギーが小さくなるので反応が進むという 言い方で問題があるとは思えない。ギブスの自由エネルギーが小さくなることは、 定温定圧条件では内部エントロピーの発生と等価だからである。 それを知っていれば、ギブスの自由エネルギーが小さくなるということを 「エンタルピーとエントロピーのかねあい」と表現しても悪いとは思えない。 もちろん著者のようにエントロピーという言葉で全部語るという流儀も ありうるのではあるが。
4.5 で低エントロピー資源ということばを使っているのが解せない。 3 章であれほどエントロピーという言葉の濫用を戒めているのに、 低エントロピー資源の定義は、エントロピーが小さいということではなく、 「得られる仕事を温度で割った量」が小さいということである。この言葉遣いは 明らかに誤解を招きやすい。エントロピーが状態量であるのに対し、 「得られる仕事を温度で割った量」は過程に依存する量である。 その後の議論は定性的で定量性がないので、このような量を指標とする 御利益が良く分からない。
5 章の光合成の議論も、少なくともこれを読む範囲では議論が甘い。 この本によると、光合成反応は一見エントロピーが減るようだが、 水の蒸散でそれが補償されて、エントロピーが増えるのだとのこと。 しかし、この議論には2つ問題がある。(1) まず、著者が他の場所では いつも書いているように、エネルギー収支とエントロピー収支を勘定する べきなのだが、それがなされていない。それをしないと環境に放出する エントロピーがわからないので、エントロピー収支が閉じない。 なぜ著者はこの部分だけではそれをしていないのだろうか? そうするとすぐ分かる通り、当然のことながら光のエネルギーや エントロピーを勘定にいれないと話が閉じない。 (2) 水の蒸散は光合成反応の中で具体的にどう関係しているのか の説明がないので、水の蒸散でエントロピーを捨てているという主張に 説得力がない。
7 章には地球温暖化の議論がいきすぎていると批判しているところがある。 この本は 10 年以上前に出ているので多少やむをえないところもあるが、 温暖化と二酸化炭素の関係を確立していないものとして、強く批判している。 この批判は現在では成り立ち難いと思う。もちろん、気温と二酸化炭素が 直接的に関係していないことは著者の書く通りで、現在でも未解決の 問題がある。しかし、それはすでにこの本が書かれていた当時から十分に 分かっていたことで、科学的基礎の不確実性を踏まえた上で対策をどうするかと いうのが問われていた問題であったはずだ。さらに、この本で書かれている通り、 地球温暖化問題がかなり政治がらみの問題であるのも確かだが、 原発推進論者の陰謀みたいなことで一刀両断にしてしまうのは、 単純化のしすぎである。 私も温暖化対策には懐疑的ではあるが、現在の温暖化の主因が 二酸化炭素の人間による放出ではないという著者の主張には説得力がない。 インターネットを検索してみると、著者がこの問題についてより 詳しく書いている場所もあるが、それもあまり説得力がない。
8.4b で「石油枯渇 30 年の嘘」というのがあって、石油の可採年数が 嘘で、あと 200 年は枯渇しないと断言している。私から見ると、これは もう少し丁寧な議論が必要なところで、そう簡単に断言するのはいただけない。 私の知っている範囲だと、悲観的に言う人でも、100 年後に石油生産が 0 に なるとは言っていない。しかし、それは決して今のように石油をふんだんに 使い続けていられるという意味ではない。間違いなくコストは上昇して 価格は上がるから(ただし現在の高値はマネーゲームのせいがかなりあるので、 現在の高値がどの程度供給の逼迫を反映しているのか私にはわからない)、 そう安穏としていられる問題ではない。 今から見れば、もともとの問題は、「可採年数が 30 年」を 「あと 30 年で石油がなくなる」と解釈したのが間違いだったということである。 「可採年数」の定義をよく考えれば、「可採年数が 30 年」の意味は、 「石油開発はだいたい 30 年先を見越して行われる」ということにすぎない。
(1) 2.1a でエントロピーを導入する際、カルノーサイクルなんか考えずに 「エントロピーありき」で天下り式にエントロピーを導入するのが 良いのだ、という態度を取っている。教える立場としてはどっちが良いか 迷うところ。しかし、「エントロピーありき」はそれでも良いにしても、 そうすると温度の定義は (∂U/∂S)V からするべきだろう。 それなのに、この本では理想気体温度で温度を定義している。 これは、論理的には不十分である。
(2) 2.2c で相互拡散のエントロピーを導入するときに、従来、技巧的に 半透膜の議論を使ってきたことを批判して、多成分のエントロピーは 要するに足し合わせれば良いのだとしている。しかし、 半透膜の議論は、一成分系から他成分系への拡張を論理的に慎重に 行うための思考実験の道具として用いられるのであって、 それを単に不要だというのは、論理的な慎重さを欠いているように思う。
(3) 3.2a,c, 3.3d で原子分子過程の可逆性と詳細釣り合いの原理を
同一視しているが、これは違う。もともとの議論は、以下のようなもののはずである。
この際の原子分子過程の可逆性の意味は、ある変化が可能なら、それを
時間反転した変化が可能であるということである。だから、平衡に向かう
変化が可能なら、平衡から離れる変化も可能なので平衡になるのは不思議ですね、
ということになる。
一方で、詳細釣り合いの原理にはそもそも広義、狭義いろいろあるので
微妙ではあるが、広義ではそもそも平衡状態の存在を仮定している。
広義の詳細釣り合いの原理は、平衡状態において微視的状態 a → b の数と
b → a の数とが等しいことを主張している。なので、熱浴に接している場合は
w(a→b) f(a) = w(b→a) f(b)(w は遷移確率、f はその状態にいる確率)と表現される。
(4) p.125 表 7.1 で書いてある水の膨張率は純水に対するもののようである。 細かいことだが、正しくは塩水に対するものを使わないといけない。
(5) 7.2b 第2段落, 7.2c 第5段落で、水蒸気を含んだ空気は軽いので 上昇する力が大きいようなことが書いてある。しかし、水蒸気を含んだ 空気で重要なのは、むしろ凝結による潜熱で暖まって軽くなることである。