いろいろな false reality が例示されている中で印象的なのは、 日本文化に関するもの、たとえば「調和」とか「イエ」とか 「日本のユニークさ」とか「文化的同質性」などだ。これらは 徳川政府や明治政府が政治的に造り出した偽りのリアリティである。 いわゆる日本人論のいかがわしさは、しばしば外国人が指摘するところであり、 私もそう思う。
政治化された社会とは、官と民が渾然一体となって、社会が政治システムに 組み込まれていることである。官僚と民間が一体となって、経済の膨張だけを 目標とした社会が作り上げられていることを論じており、これが この本の中心課題である。
バブル経済も同じ考えで分析されている。結局、バブルとその崩壊は、 「家計部門から産業部門への一挙に加速された富の移転にすぎない」 と結論される。バブルでどんどんマネーが創造され、企業は充分に 設備投資ができた。その資金はバブル崩壊で家計からから消滅した。
一体、何を改革するのか?どのように改革するのか?改革の中身の論議は ほとんどないまま、「改革」は日本の不可侵の政治的大義となった。郵便局が集めたお金は官僚たちが使える「第二の予算」と呼ばれる財政 投融資を通じて日本経済を支えてきた。この膨大なお金を市場に解放 ―それが民営化ということだが―したら、日本の財政が破綻し、公共事業に 頼った農業などさまざまな分野が崩壊しかねない。特に建設業界全体が 沈没の危機をはらんでいる。この国の財政は郵政事業を不安定な市場力学から 切り離すことで国債を買い支えてきたのだ。
(中略)
現段階で、こうした新機軸を打ち出すことができそうなのは野党しかない。 民主党は一体化できるなら自民党と似たようなイメージを一掃し、2大政党の 一つをめざすべきだ。