日本の英語教育は読み書き偏重で、「聞く話す」がなおざりになっているのが 良くないとする主張がしばしばなされる。この主張には2点間違いがある というのが著者の言っていることである。第1には、日本の教育では英語の文章を 「書く」訓練がほとんどなされていないということである。第2は、 「聞く話す」を重視する教育は、教育ある大人が第2言語を習得する方法としては 好ましくないということである。著者は、自分の経験と各種の英語教育の文献や Pinker の言語理論などに基づいて自説を裏付けている。
第1の点は、私も理系の学生と教員を経験した者として強く感じるところである。 そもそも、日本の国語教育では、日本語の論理的な文章を書く訓練が全くなされない。 そのために、理系の学生は大学院に入って始めてそのような訓練を受け、 さらに論理的な英語を書く訓練を受けるようになる。そのようにして はじめて日本語が書けるようになるし、一応英語が使えるようになる。 もっともだからといって、それがすぐに話す力をつけることにつながわるわけでは ないが、逆に話す力は単純な会話訓練によってつくわけでもない。 ボキャビュラリーを増やすことが決定的に重要で、それにはやっぱりたくさん 文章を読まないとしょうがない。というわけで、読み書きの重要性は、 私も日々感じているところである。
第2の点に関しては、著者は終章で、英語教育の歴史を踏まえた考察を行っている。 そもそも外国語教育は、歴史的に「読み書き重視」と「会話重視」の両極端の間を 振り子のように振れてきた。ふつうに行われる英語教育の議論は、こういう 過去の議論の亜流でしかない。そもそもアメリカで、アメリカ人がフランス語を 習うときには、文法、読解、作文が中心の授業が行われている。 アメリカでの外国人に対する英語教育が会話中心になっているのは、 行動主義心理学の今となっては誤った理論の影響と、教える対象が 外国人労働者階級2世が中心であることに因っている。教養ある大人が 第2言語を学ぶときには、文法、読解、作文を中心とすべきである。
とはいえ、ここで書かれているように、作文の良い先生を見つけるのは 容易ではない。会話とちがって、そんじょそこらのネイティブの大学生程度では そのような教育を適切に行える能力がない。私は、自分の英語はいまだに 下手だけど、最低限論理的に通じる英語の作文は教えられると思う。 学ぶ身、教える身としていろいろ啓発された次第。
多少心配になることがひとつ。こういった自分の経験をベースにした話は、 自分の経験は良かったという話になりがちで、客観性がどの程度あるのか 若干疑問になる。私の直感では、著者の言っていることは間違っていないように 思うが、かならずしも客観的なデータで裏付けているわけではないのが心配。