肉眼の思想 現代芸術の意味

大岡信著
中公文庫 M100、中央公論社
刊行:1979/06/10
小牧の古本屋 Penny Lane イトーヨーカドー小牧店で購入
読了日:2006/08/11

大岡信が 1967 年から 1969 年にかけて「中央公論」などの雑誌に書いた いくつかの記事をまとめたもの。1967 年と言えば、もう約 40 年前で、 私の場合だと記憶に残っていない赤ちゃん時代である。にもかかわらず、 読んでみると、現代芸術の意味ということに関しては それほど今と変わっていないように思える。書いた当時、大岡氏は 30 代で あった。鋭い批評眼が随所に見られる。

ひとつの大きなテーマは、現代において芸術というものが独立した 一分野となっているがゆえの苦しみというか特質の話である。 たとえば、絵は昔実用の道具であった。しかし、写真ができて以来、 実用性はなくなったので、独立して独自の道を歩まねばならなくなった。 その行き着いた先が現代芸術である。こういった事情は科学にもある。 科学の元が神学であるというにせよ技術であるというにせよ、どちらにしても 実用の学であった(神学も人の心を癒す実学である)。現代においても 科学には実学の要素もあるが、科学はそれ自身で独立した虚学でもある。 そんな芸術と科学の類似点を漠然と考えながら読んでいた。

以下、各論考のサマリー。サマリーを書いていて気付いたのだが、 著者は身近な状況や経験を冒頭に置いて、そこからある程度の連関を持って もっと大きな問題に移って議論するという書き方をしている。 その身近なことと、本筋との関連は、あまり直接的でないこともあって、 そういうのはサマリーを書きづらい。論考というよりは、 感想文だと思えば良いのだけれど。

もうひとつ気付いたことは、やっぱり著者の専門である文学あるいは 言語芸術に関する論考が、それ以外の芸術に対するものよりも深いと いうことだった。ただ、ひょっとするとそのわけは、著者が専門だから ということでもなくて、そもそも評論という行為が言語を用いて なされるせいかもしれない。


現代の創造―序にかえて―

技術とマス・コミュニケーションの時代にあって、肉体的なもの、 自然的なもの、反合理的なもの、(問題解答能力に対する)問題提起能力 といったものが権利を主張している。

技術時代の美術

技術の時代の美術のありかたについて、極端に走らないように 行きつ戻りつしながらの論考。 新素材を使うこと、技術と芸術の総合としての建築、デザインと美の関連 について論じている。そして最後は以下のように終えられている。

ある作品が「手仕事」でつくられていようと「機械」でつくられていようと、 「美」の系列にあろうと「能」の系列にあろうと、そこに「能産的自然」の ダイナミズムが生き生きととらえられているかどうかが、ぼくにとっては 大切である。その余の議論は、いずれにせよ二義的なものにすぎない。

そしてこの僕に今感じられる最も大きなことといえば、テクノロジーが、 美術にもその観衆にも加えつつある大きな衝撃ということであり、希望的なものと 絶望的なものが分かち難く入り混ってひろがっている未来の美の、 不安で魅惑的な牽引である。

文学は救済でありうるか

大江健三郎「万延元年のフットボール」に関する感想。途中のひとつの 段落を引用しておく。

救いなど、どこからもやってきはしないのだ。おそらく、われわれにとって 最も救いになるのは、救いなどないのだという認識であって、少なくとも この認識は、われわれをわれわれ自身に連れ戻し、平静さをもたらす。 だが、われわれは、自分自身に還ったとき、ふたたび、伊藤氏のあげた さまざまの恐怖が、ほかならぬわれわれ自身の属性であることを見出す。 これはひどい悪循環である。このために、われわれが自分自身に課する 形而上学的課題の最も徹底した形式は次のようなものとならざるをえない。 すなわち、「地獄を所有せよ。地獄を認識せよ。しかして地獄を乗りこえよ」

日本語の中に独創性を求めて

現代の日本語による詩作の困難さの起源を論じている。江戸時代までは 詩と言えば漢詩を指していた。明治時代になって、 欧米の模倣から始まって新しい詩の形が模索された。その方向でのひとつの絶頂が、 薄田泣菫や蒲原有明の洗練された文語体の定型詩であった。 ところが、これはたちまちにしてもっとストレートで赤裸々な叫びをという 批判に押し流されてしまった。これは20世紀芸術に特有の欲求と一致する。 ところが、日本語は強弱アクセントを持たない平板な言語なので、 定型を捨てた途端に韻文としてのリズムを失った。その後の口語自由詩は ずっとこの問題と格闘している。耳から入る言葉の重要さをもっと考えるべきだ。

イメージ時代の中のデザイン

今日の宣伝においては、「力」と「深み」と「日常生活」が三位一体となっている。 デザイナーはこれに応えなければならない。一方で、ポスターが伝達の手段として 時代遅れになって来つつあって、そのために、グラフィックデザインが 自立化あるいは「美術化」してきている。ところが、先日の日宣美展を見てみると、 どうもそのような時代の流れに対する意識とか展望とか苦しみとかが感じられず、 不満だった。

吉田感想:本筋とは関係がないが、冒頭部で日本人論みたいなことを 書いてあるのは、ちょっと薄っぺらくて気に入らない。本筋も、 いまひとつまとまりきらない感じ。

舞台空間における時代の形象化

雅楽や舞楽は、観衆に対し積極的に訴えることは何もしないにもかかわらず、 非常に魅力的である。これと関連して、最近、小劇場が流行で、これは舞楽とは 全く別種ではあるものの、演者と観客の間の共生感が生み出されている。 ことに唐十郎氏の状況劇場は刺激的だ。唐氏は、作者や演出家よりも役者こそが 演劇の中核であると考えている。広く言えば、時代をどう形象化するかという 問題に対して実験的な問いかけをしている。実のところ、この時代の形象化という 問題は小劇場に限らず、大劇場においても大きな問題だ。

言語芸術には何が可能か

タイトルは建築家原広司の本からの引用

「建築とは何か」という問いは「人間とは何か」という問いが不毛であると同様に、 行動の指標とはなりえない。もし私たちが人間について問うなら、「人間に 何ができるか」を問うべきである。同様に建築についても「建築に何ができるか」 を問うべきであろう。
にちなんだもの。まず、滝口修造の実験的な詩作を論じ、言語の自律性と 現実との間の緊張感を強調する。次に、それと対比して、宮沢賢治の詩や童話を 論じる。滝口の苦悩に満ちた実験とは対照的に、宮沢賢治は実に自然に天衣無縫に 世界を作り上げて実在させてしまう。芸術としての言語(すなわち自律した言語)と 実在との幸せな関係がここに示されている。

吉田感想:滝口修造の詩は、一線を越えてしまって空中分解しているように思える。 絵画のシュールレアリズムは成立しても、言語では成立しうるのだろうか?

公衆はどこにいるのか

いくつかの視点で弁証法的(?)に議論を進める。 まず、戦争画において、日本の絵画が近代絵画がロマン派に「逆戻りした」ことを 説明する。そのことの是非はともかく、本来そのことは戦後「近代」とは 何であるかを問い直すきっかけになるべきだった。アメリカの美術は 戦争をきっかけに、ヨーロッパから独立し、アクション・ペインティングや 抽象表現主義を産んだ。しかし、日本では何も生まれなかったばかりか、 西洋コンプレックスをいっそう深めるだけの結果になった。 次に、日本においては、美術批評家が推す作家と画商が推す作家が まったく違うことを説明する。画商は、単なる商売人で 社会の趣味を作り出そうなどとはしていない。結局のところ、美術の鑑賞者である 「公衆」が不在なのだ。で、最後に、藤田嗣治において、ヨーロッパ時代の絵画と 戦争画の関係は何だったのか?ヨーロッパ時代の絵画には(悪い意味ではなく) 美しい偽善を感じる。

未来芸術への模索

芸術作品は、それが置かれる場によって見え方が変わる。それが環境芸術という 概念である。作品を見る観衆も社会と切り放されないものである。 大阪万博に出展する予定の芸術家の造形作品を見ながら、それらが出会う 観衆がいかなる人々であるかを考えた。そして、仮名垣魯文の「西洋道中 膝栗毛」のロンドン万博の場面を思い出した。展示される技術の前で、 芸術はどのようなスタンスを取るべきなのか?

現代芸術の中心と辺境

芸術の根底には、まじない、あるいは呪術的なものがあるのではないか。 それが人々に生きる力を与える源となる。しかし、まじないだけでは 芸術にはならない。呪的な価値がいったんは否定され、その表現自身に 価値が与えられ洗練されたときにはじめて芸術となる。デッサンは、 自分の内面に形を与え固定化するものだ。その習練を通じて 個性が表現できるようになる。現代の芸術は大きく変化している。が、 基本的に重要なことは、やはり自らのことばに立ち返るということであろう。

美術に国境はないか―<ことば>の普遍と特殊―

日本人は、文学や演劇において、ロシアに親しかったが、 フランス文化とはなじめなかった。美術においても、 西洋の絵画が分析的で純粋指向なのに比べ、 日本人にとっての洗練は純化の方向ではなかった。 美術が世界普遍のものであるのかどうか疑問を感じる。 ミロの展覧会を見て感じたことは、あの不吉な茶褐色は 日本人にはわからない種類の色ではないかということだ。

季節と文明―日本画私観―

日本画、あるいは日本の古典的詩歌においては、季節が重要である。 それは優しい感情に訴えるものであって、知性やら激情とは無縁のものである。 紀貫之の歌論で分析されていたものも、華麗、優、余情、幽玄、言葉や心の上の 一ふしの面白さといったものであった。リアリズムは問題にならず、 季節ならば季節そのもの(あるいは質としての季節)をとらえることが 問題にされた。紋切型の画題はむしろ好都合で、そこに主体的に捉えた 自然の息吹を通わせることが肝要であった。

現代のリリスム

見えないものを見えるようにする、あるいは見えるものを見えないようにする、 これらのことが芸術である。すなわち、 無限定な内面現象を限定的に外面化するのである。内的な感覚を視ることを 私は叙情的と呼びたい。

吉田注:題名のリリズムは、英語ならばリリシズム (lyricism) が正しい。 ここでは原文のままにしておいた。上のサマリーでは「叙情」としておく。

武満徹をめぐる二、三の観察

吉田注:武満徹の音楽を言葉で語るのは難しい。この小論も私には いまひとつピンと来ない。そこで、サマリーを書くのはあきらめた。 最初の方で、エネルギー保存則や磁場を暗喩として用いているのも、 私の気持が引いてしまった理由である。

三人の現代芸術家

建築家原広司の最近の著書「建築に何が可能か」は、空間を思想化しようとする 壮大な試みである。造形作家山口勝弘は、最近の著書「不定形美術ろん」において、 技術の発達とコミュニケーションの問題を扱い、技術の美術への影響に関して 楽観的な見通しを語っている。宇佐見圭司のレーザーを使った作品は、個と 集団のかかわり合いを新鮮な切口で可視化している。