藤堂高虎は、家康からの信頼が厚く、外様でありながら譜代並か それ以上の待遇を受けた。主君を何度も変えたために、近年まで 評判が悪かったのだが、最近評価が見直されている。考えてみれば、 家康ともあろう人が、単なるおべっか使いだけで中身がない人を重用するはずもない。 おそらく周囲から妬まれたのであろう。江戸城の縄張りまでも任せるというのは、 相当の信頼であると言うべきである。関が原や大坂夏の陣でも前線で戦っており、 とくに夏の陣では大損害を受けている。この奮戦は単なる要領の良さだけでは できないことだろう。
主君を何度も変えたと言っても、それは若いうちだけである。21 歳で羽柴秀長の 家臣になって以降は、秀長家にはその養子秀保が死んで家が断絶するまで 仕えているし、その後秀吉に仕えたと言っても、仕方なかったわけで、 最初から見限っていたのではなかろうか。そして、死後直ちに家康に乗り換えた というだけの話である。
主君を何度も変えるというのは、逆に言えばボスを見定める目がしっかり していたわけで、秀吉の死後、直ちに家康に接近したのも、結果論的ではあるが 慧眼であったと言える。本書は、比較的淡々としていて必ずしも高虎の心理を えぐるような書き方をしていないので、高虎が家康に乗った事情ははっきりしない。 まあ
秀吉の在世時代から家康はたぐいまれな高虎の能力を認め、高虎もまた 秀吉亡きあと、これに代わって天下を統一し、日本を平和に導く人は 家康のほかにないと考え、これを助けたのだ。と書いているくらいである。しかし、高虎が豊臣家を見限ったのは、もともと秀吉が 嫌いだったためではないかとも考えられる。たとえば、2つのエピソードが 書かれている。1つは、高虎が高野山に入ったことに関して
秀長の生前、あれほど頼りにし重用しながら、その後嗣が死ぬと、あっさり 絶家にする、秀吉の非情さに対する、せいいっぱいの高虎のレジスタンスであった。と書いてある。もう1つは、賤ヶ岳戦を高虎が述懐した言葉として
のちに七本槍と呼ばれた面々だけの手柄ではない。しかし太閤様は 自分のお側衆だけの手柄のように言われたので、わしらは、その数に入らず 骨折り損となった。とある。朝鮮出兵も大きな要素ではなかったかと思うのだが、それに関して 高虎がどう考えたかは書かれていない。
高虎は、体格が良く(身長 190 cm 近く)武勇に優れていると同時に、 築城の名手として知られていることでも分かる通り、実務にも長けていた。 書かれているいくつかのエピソードも、高虎が賢くて合理的だったことを示している。 たとえば、
藤堂高虎というのは秀吉手飼いの大名(伊予板島で八万石)だが、このところ たのまれもせぬのに徳川家の間諜をみずからつとめ、殿中の情報をせっせと 持ってきている妙な男である。
(中略)
主家を自分でえらぶ男で、一つ家への中世的な忠誠心などはじめからなかった。 この点、中世的な武士道のすきな家康には多少理解しがたい型の男だ。 [新潮文庫上巻 p.212]家臣を統御するにも利と射倖心で釣り、みずからの処世法も利と射倖心で 動いている。もっとも、豊臣大名の中では
――応接は高虎に。
といわれたほどに、交渉ごと、お祝いの使者、もめ事の調停、宴会の接待などに 長じた男だ。そういう露骨な功利主義をおおいかくすすべも知っている。 [新潮文庫上巻 p.272]