他人の顔、けものたちは故郷をめざす、飢餓同盟、赤い繭、デンドロカカリヤ

安部公房著
われらの文学7, 講談社
刊行:1966/02/15
各作品の初出年:1949(デンドロカカリヤ)、1950(赤い繭)、1954(飢餓同盟)、 1957(けものたちは故郷をめざす)、1964(他人の顔)
名古屋桜山の古本屋で購入
読了日:2003/09/11(他人の顔)、2007/08/24(けものたちは故郷をめざす)、 2007/08/25(赤い繭)、2007/09/02(飢餓同盟)、2007/09/03(デンドロカカリア)

講談社の現代文学全集「われらの文学」の1冊で、 安部公房の5つの中編・短編小説を集めたもの。 日本ではこんな小説家は今のところ空前絶後で、 こんなに奇想にひたさせてくれる作家はいない。 「他人の顔」は 2003 年に読み、しばらくお休みしてその他の作品は 2007 年に読んだ。
「他人の顔」は、設定は異様であるにしても、ストーリーは以下のように単純である。 主人公は、液体空気の爆発による火傷で顔を失う。顔面は蛭が這い回ったように なってしまい、顔を繃帯で覆わざるを得なくなる。 そこで、主人公は自身の高分子化学の専門家としての知識を活かして、 精巧な仮面を作って使ってみる、というものである。

この小説の主眼は、ストーリーよりは、主人公が顔に関して述べる あらゆる種類の感想やら考察やらである。主人公は、顔を失ってから 仮面を妻に対して試してみるまで、あれやこれやと行きつ戻りつ ストーリーの展開に合わせて変遷しつつ、顔に関してさまざまのことを 粘着質のしつこさで考える。これがこの小説の圧倒的なところだ。 ものごとの複雑な概念を語るのに、哲学という方法もあるけれど、 小説という方法も有効なのだということに気付かされる。 小説では、何かの結論は得られないけれど、視点をゆっくり動かしながら 複雑な概念のさまざまな側面を見せてくれる。

最後には、仮面をかぶって完璧に他人になり切ったつもりだったのに 妻に最初から見破られていたというオチが付いている。

<妻の手紙>
長靴の中で死んでいたのは、仮面ではなくて、あなたでした。 あなたの仮面劇を知っていたのは、なにもヨーヨーの娘ばかりではありません。 私だって最初の瞬間……あなたが、磁場の歪みだなどと言って、 得意がっていた、あの瞬間から、すっかり見抜いてしまっていたのです。
オチと言うより、むしろ顔に関する考察のための大きな最後の仕掛けという方が 正しいかもしれないが。
「けものたちは故郷をめざす」も、ストーリーはあってないようなものである。 主人公の久木久三が、終戦の3年後、満州から日本を目指して苦難の旅をする。 それでもなお最後には日本の一歩手前まで来ながら、 日本にたどり着くことができない。この小説の主眼は、その道中で遭遇する あらゆる難儀や不条理を描きながら、生と死の境目とか死を前にする生への力とかを 浮き上がらせることにある。

読んでいて、現代音楽のトーン・クラスターという言葉を思い出した。 一度にあらゆる音をグチャッとぶつける手法である。気が滅入るような 艱難辛苦を次々とぶつけていって、最後には救済も何もないというのが この小説のやりかたである。


「飢餓同盟」は、現代的な戯画である。

花園町というとある田舎町においては、 よそ者のことを「ひもじい野郎」と呼ぶ。そのよそ者の秘密の集まりで 「ひもじい同盟」というのがあって、それがあるとき改称して「飢餓同盟」となる。 だから、飢餓の話が出てくるわけではない。

「飢餓同盟」は、ひとことで言えば、個人がじたばたしているうちに、 もっと大きな社会の力に押し潰されて敗北してゆく物語だ。 といっても、単に社会対個人の物語であるというのも単純化のしすぎだ。 この小説では、いかにも安部公房らしく、さまざまのイメージを 組み合わせて非現実的な物語が紡ぎ出される。コラージュされている イメージにどういうものがあるかというと、よそ者、田舎の排他性、 革命とその頭でっかちさ、企業や政治家による搾取、不条理からの脱出、 不条理による犠牲、非人間的な技術などなど。このようなイメージを 誇張して巧みに組み合わせることによって、 人間と人間が作る社会が不可避的に持っている歪みのようなものを、 戯画的に描き出している。


「赤い繭」は超短編。 壁、繭、夕陽、玩具箱、これらの織り成す鮮烈なイメージが作品の命である。 前半部では、それに満州育ちの著者の故郷喪失感がそれに融合しているようだ。 帰る場所を求める徘徊は、壁に拒まれ、内に閉じこもって繭となるも、 それはちっぽけに打ち捨てられる。

「赤い繭」は短いがゆえに高校の教科書にもしばしば取り上げられる。 でも、こういうシュールレアリスティックな作品を教科書で取り上げて 良いのだろうか?勉強になるとは思えないのに。 しかし、この小説は印象的なものなので、ネット検索すると、 教科書で最も印象に残ったという感想がたくさんひっかかかる。 そのことが教科書に載せる価値であると言えるのかもしれない。


「デンドロカカリヤ」は短編。この題名となっている dendrocacalia crepidifolia というのは、ワダンノキ (キク科ワダンノキ属)という実際ある植物の学名で、 小笠原固有種で、しかも絶滅危惧種だそうな。 珍しい植物なので普通の図鑑だとあんまり載っていないが、ググるとわかる。 cacalia はキク科コウモリソウ属のことらしいから、 dendrocacalia は「木になるコウモリソウ」という意味だろう。 ついでに言えば、「ワダンノキ」は「葉がワダンのように集まっているから」 (ワダンノキ)付いた名前だそうで、 種名の crepidifolia も同じ由来なのだろう(ワダンの学名が crepidiastrum platyphyllum で、folia が「葉」なので)。

題名はさておき、物語は、コモン君がデンドロカカリアという植物に なってしまうというものである。 そういう奇妙な物語なので、いろいろな解釈が成り立つ。ググってみると 千差万別の解釈が見られておもしろい。散りばめられている小道具を 解読してゆくのは、小説家と読者の知恵比べのようでもある。 それをやると楽しそうだが、あいにくあんまり時間がないので 追求しないことにする。

ただ、せっかく植物名の由来を調べたところで、それに込められた意味を いろいろ考えてみよう。この植物名は、主体性のない変な名前である。 コウモリソウに似ているとかワダンに似ているとか、他の植物に依拠して 付けられている。この主体性の無さは、デンドロカカリヤが 温室という世話をしてもらう環境に植えられるというこの物語の結末と 照応しているようで興味深い。それに関連して、デンドロカカリヤは、 物語中では「菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない樹」と描写されており、 姿は平凡であるとされている。この描写はコモン(普通)君という名前と呼応する。 キク科の植物はありふれているので、その姿はたしかに見栄えの しないものであろう。しかし、その一方では、デンドロカカリヤが稀少種で あることに注目すると、「コモン(普通)君が、珍しいものになる」という 意味もありそうである。稀少種であることは孤立感を象徴しているのかもしれない。