この小説の主眼は、ストーリーよりは、主人公が顔に関して述べる あらゆる種類の感想やら考察やらである。主人公は、顔を失ってから 仮面を妻に対して試してみるまで、あれやこれやと行きつ戻りつ ストーリーの展開に合わせて変遷しつつ、顔に関してさまざまのことを 粘着質のしつこさで考える。これがこの小説の圧倒的なところだ。 ものごとの複雑な概念を語るのに、哲学という方法もあるけれど、 小説という方法も有効なのだということに気付かされる。 小説では、何かの結論は得られないけれど、視点をゆっくり動かしながら 複雑な概念のさまざまな側面を見せてくれる。
最後には、仮面をかぶって完璧に他人になり切ったつもりだったのに 妻に最初から見破られていたというオチが付いている。
<妻の手紙>オチと言うより、むしろ顔に関する考察のための大きな最後の仕掛けという方が 正しいかもしれないが。
長靴の中で死んでいたのは、仮面ではなくて、あなたでした。 あなたの仮面劇を知っていたのは、なにもヨーヨーの娘ばかりではありません。 私だって最初の瞬間……あなたが、磁場の歪みだなどと言って、 得意がっていた、あの瞬間から、すっかり見抜いてしまっていたのです。
読んでいて、現代音楽のトーン・クラスターという言葉を思い出した。 一度にあらゆる音をグチャッとぶつける手法である。気が滅入るような 艱難辛苦を次々とぶつけていって、最後には救済も何もないというのが この小説のやりかたである。
花園町というとある田舎町においては、 よそ者のことを「ひもじい野郎」と呼ぶ。そのよそ者の秘密の集まりで 「ひもじい同盟」というのがあって、それがあるとき改称して「飢餓同盟」となる。 だから、飢餓の話が出てくるわけではない。
「飢餓同盟」は、ひとことで言えば、個人がじたばたしているうちに、 もっと大きな社会の力に押し潰されて敗北してゆく物語だ。 といっても、単に社会対個人の物語であるというのも単純化のしすぎだ。 この小説では、いかにも安部公房らしく、さまざまのイメージを 組み合わせて非現実的な物語が紡ぎ出される。コラージュされている イメージにどういうものがあるかというと、よそ者、田舎の排他性、 革命とその頭でっかちさ、企業や政治家による搾取、不条理からの脱出、 不条理による犠牲、非人間的な技術などなど。このようなイメージを 誇張して巧みに組み合わせることによって、 人間と人間が作る社会が不可避的に持っている歪みのようなものを、 戯画的に描き出している。
「赤い繭」は短いがゆえに高校の教科書にもしばしば取り上げられる。 でも、こういうシュールレアリスティックな作品を教科書で取り上げて 良いのだろうか?勉強になるとは思えないのに。 しかし、この小説は印象的なものなので、ネット検索すると、 教科書で最も印象に残ったという感想がたくさんひっかかかる。 そのことが教科書に載せる価値であると言えるのかもしれない。
題名はさておき、物語は、コモン君がデンドロカカリアという植物に なってしまうというものである。 そういう奇妙な物語なので、いろいろな解釈が成り立つ。ググってみると 千差万別の解釈が見られておもしろい。散りばめられている小道具を 解読してゆくのは、小説家と読者の知恵比べのようでもある。 それをやると楽しそうだが、あいにくあんまり時間がないので 追求しないことにする。
ただ、せっかく植物名の由来を調べたところで、それに込められた意味を いろいろ考えてみよう。この植物名は、主体性のない変な名前である。 コウモリソウに似ているとかワダンに似ているとか、他の植物に依拠して 付けられている。この主体性の無さは、デンドロカカリヤが 温室という世話をしてもらう環境に植えられるというこの物語の結末と 照応しているようで興味深い。それに関連して、デンドロカカリヤは、 物語中では「菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない樹」と描写されており、 姿は平凡であるとされている。この描写はコモン(普通)君という名前と呼応する。 キク科の植物はありふれているので、その姿はたしかに見栄えの しないものであろう。しかし、その一方では、デンドロカカリヤが稀少種で あることに注目すると、「コモン(普通)君が、珍しいものになる」という 意味もありそうである。稀少種であることは孤立感を象徴しているのかもしれない。