特集 人を殺す学校制度

中央公論 2007 年 1 月号
中央公論新社
刊行:2007/01/01 (実際は 2006/12/10 ころ)
名古屋本山の「いまじん本山」で購入
読了日:2007/01/03

最近話題になった学校をめぐる様々の問題に関する鼎談一つと論説二つ。 テレビの報道はいつも間違った方向に行くので、見るに堪えなくなって 途中からあまり見なくなった。いじめを批判するのに教師いじめを やっているのでは、何をやっているのだかという感じである。 教育基本法が改正されて静まったところを見ると、 やはり御用放送局の教育基本法改正応援キャンペーンの一環だったのでは ないかと勘繰りたくもなる。おかげで必要もない教育基本法改正が 行われてしまったというわけだ。

とはいえ、学校がさまざまの問題を抱えていること自体は確かで、 さすがにこういう雑誌に載る論説には聞くべきところがいろいろある。 しかし、最初の二つタイトルの付け方がおかしい。 雑誌の編集者が、タイトルが目立つことだけを優先した結果だと思える。 編集者の質が悪いのではないだろうか。 タイトルの付け方が正しい最後の論説は、私から見ると内容がおかしい。

第一番目に載っているのは、義家弘介、寺脇研、藤井誠二による鼎談 「いじめには出校停止処分を」である。このタイトルはあまり 適切でもはなくて、鼎談の内容は、主としていじめ問題をいろいろな角度から議論した というもので、出校停止処分の話はごく一部である。座談会の常として とくに結論があるわけではない。

こういう座談会で興味深いのは、意見が対立する点である。 この鼎談ではひとつ大きく意見が3人で違っているところがあった。 それは「集団」に対する考え方である。藤井氏がまず、 いじめられないために気を遣う「中間集団層」の存在を問題にして、 それを解体してしまえ、と言う。次に、義家氏は、 集団はいずれできるものなので教育の一環として必要で、その集団の 作り方を工夫すれば良いという話をする。寺脇氏は、外部の人も 入ってくる中でいろいろな集団を作れば良いという話をし、 藤井氏はそれを受けて、今の学校の集団の作り方が画一的だと言う。 これらを一歩引いて眺めてみると、それぞれの人の立場が出ていて 興味深い。義家氏は現場の人なので、現場でこういう工夫をすれば 解決するのだという言い方をする。ただ、私の考えでは、義家氏のような 有能な人はそれで良いけど、今問題になっているのは必ずしも有能でない 教師がいることを前提にしてどうすればよいかということなので、 全体の解決にはならない感じがする。もちろん、このことばが役に立つ 教師もいると思うけれど。藤井氏はジャーナリストなので、集団の構造が おかしいという分析は鋭いけれど、それをどう変えていくかという現実的 解決の方法としては、言っているようなことでうまくいくかどうかは 疑問が残る。寺脇氏は官僚なので、システムを見てはいるのだけれど、 「外部の人」とか「地域」の中で解決していくという考え方を見ると、 地域によってはうまくいくところといかないところがあるのでは ないかという疑問も湧く。地域集団は地域集団で問題を抱えていることが 往々にしてあるからだ。それぞれの人は実はもっと深いことを 考えているのかもしれないが、談話だけなのでよくわからない。

次の、中井浩一の「教育委員会問題の本質は、地方の”甘え”にある」は、 事実認識としては私はほぼ賛成できる。短いので、解決策は あまり提示されていないけれども、平明な解説であると思う。 もともと難しい問題なのでそう簡単に解決策があるはずもない。 なお、ここでもタイトルは書いてあることのごく一部しか表現していない。 私がタイトルをつけるなら、インパクトはないけど「教育問題は もっと冷静に議論しよう」というくらいのものである。冷静にというのは 当たり前だけど大事だと思う。

議論はまず、いじめ問題、未履修問題、タウンミーティングでのやらせ問題は きちんと分けよう、ということで始まる。当然である。やらせ問題は 行政上の問題としてここでは扱っていない。未履修問題では、教育者が 高い理想を捨てたことが第一に問題であるとしている。これもその通り であるように思う。進学校の校長が教育長になったりすることが多いことが、 この論説のタイトルにつながっている。いじめ問題については、 解決が難しいことを認めてその前に冷静になることをよびかけている。 いわく

多くの校長や教員は善意はあっても普通の人たちだ。彼らに普通の人以上のことを 求めようとすると破綻するだろう。学校を、普通の人が、普通に仕事をしていくことで やっていけるような場にすること、それが現在の急務ではないだろうか。
これもその通りだと思う。このことを前提にしないとそもそも話がおかしい。

最後の論説、川勝平太の「日本社会の目標喪失が教育を壊した」には、 私にはとても賛同できない。「新しい実学」が必要などと一見格好の 良いことを言いながら、東京大学を「JICA グローバル大学院」にしたいとか、 安倍総理の「美しい国」を礼賛してみたりとか、全く地に足のつかない 妄想を述べているだけに見える。理念を語るのは構わないのだが、 それならば、今まで人類が築き上げてきた学問の位置づけがしっかり 示されていなければならない。それを古い実学と言って切り捨てるようでは 考えが偏っているとしか思えない。