聖武天皇とその時代

遠山美都男著
NHK カルチャーアワー 歴史再発見 2007 年 4-6 月、日本放送出版協会
刊行:2007/04/01
名大生協で購入
読了日:2007/06/07

従来軟弱なイメージがあった聖武天皇のイメージを変えようという試み。 これまで理由がはっきりしなかった聖武天皇の行動にもしっかりした理由が あることを論証して、聖武天皇のイメージアップを図るのが狙い。 この本によれば、聖武天皇は、歴代天皇の中で最も派手にパフォーマンスを やった天皇ということになる。

とくに、本書の大きなポイントは、当時、天皇家が文武皇統を守ることに いかに腐心していたかということを強調することにある。 皇位継承の争いはすさまじい。この時代までずっと血で血を洗うような 紛争が繰り広げられていたことがわかる。これがおもしろいので、 放送終了前に本書を読み終わってしまった。そして、もう一つのポイントは 大仏建立である。

先日 (2007/05/04)、NHK テレビで「東大寺」という番組を見た。 巨大な盧舎那仏の建立には、延べ人数にして当時の日本人の半数くらいの人が 関わっていたそうだ。これだけの人数を動員できるのだから、 聖武天皇が相当の権力もしくはカリスマ性を持っていたはずで、 単に軟弱な王であったとは思えない。というわけで、 著者の主張も説得力があるように思える。


サマリー

さて本書に戻って、サマリーを書いてみる。大きくは、皇位継承問題と 大仏建立計画に分かれる。

皇位継承問題

話は、天智・天武・持統天皇のあたりから始まる。それまで 皇位の継承は年齢、経験、実績などを元にして決められていた。 しかし、そのために天皇の代替わり毎に紛争が絶えなかった。 そこで、天智天皇のあたりから意図的に近親結婚を行って 「特別な血統」を生み出すことが企図された。 天智天皇の4人の娘は弟の天武天皇と結婚した。 とくに聖武天皇の父の文武天皇(珂瑠皇子;かるのみこ)は、 草壁皇子(天智天皇の孫であり甥でもある)と 阿陪皇女(天智天皇の子でのちの元明天皇)との間に 生まれた子であるから、血統の純粋ないわばサラブレッドであった。 そこでその血統を守ることが天皇家の重要な課題になった。

天武天皇の死後、まず、持統天皇は、大津皇子が草壁皇子の暗殺を図ったとして、 大津皇子を処刑する(大津皇子の変)。持統天皇が草壁皇子の母親であることから、 これを持統天皇の謀略であるとする見方もあるが、著者は、むしろ暗殺計画が 事実であったと考えている。その後、持統天皇は、飛鳥浄御原令で 皇太子の制度を作り、珂瑠皇子を初めての皇太子とした(草壁皇子は早世していた)。 また、持統天皇は、近親結婚の欠点を悟ったのか、藤原氏を 天皇の妻を供給する一族に選ぶ。

珂瑠皇子は文武天皇になったものの、25 歳でこれまた早世。 息子の首皇子(おびとのみこ;のちの聖武天皇)はまだ幼かったので、 文武の母が元明天皇となり、次に文武の妹が元正天皇となることで、 首皇子の成長を待つことになる。元明天皇の時に、首皇子は皇太子となり、 藤原氏の光明子を娶る。

724 年、首皇子は 24 歳のときに満を持して即位し、 聖武天皇となる。727 年、光明子が皇子を産むと早速皇太子にするものの、 満 1 歳を待たずに夭折してしまう。729 年、天皇を補佐していた長屋王が 謀反を計画した(皇太子を呪術で殺した)として自殺に追い込まれる (長屋王の変)。しかし、これは冤罪であった。藤原氏の陰謀であったというのが 定説だが、著者は、聖武天皇が皇太子の死でショックを受けていたために 讒言をたやすく信じたのがこの悲劇の理由だと考えている。同年、聖武天皇は、 光明子を皇族以外で初めての皇后にする。これは、著者によると、藤原氏の娘が 皇統の後継者を産むという原則を確認するためのものだったと考えられる。

光明子がその後男子を産まなかったので、後継問題が発生した。 聖武天皇は、まず、光明子との間に生まれた阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を 738 年皇太子とした。彼女は、おそらく次の天皇への中継ぎとして、 意図的に独身にされた。そして、749 年、聖武天皇は譲位して、 阿倍皇太子が孝謙天皇となる。

さらにその後継として、聖武天皇は以下の2つの可能性を 考えていたと、著者は聖武の娘の結婚を通して推測している。

  1. まず、おそらく「塩焼王」を後継に考えていた。塩焼王は、 天武天皇の孫、藤原鎌足の曾孫だから、血統として申し分ない。 そこで、娘の不破内親王を嫁がせた。しかし、742 年、 不祥事を起こしたらしく、聖武天皇はその後終生に渡り塩焼王を許さなかった。
  2. そこで次には、「白壁王」(のちの光仁天皇)を後継に考えた。 天智天皇の孫なので、血筋が良いと考え、娘の井上内親王を 744 年以降の どこかで結婚させた。そして、その後、 白壁王と井上内親王の子の息子にバトンタッチすることを考えた。 その息子である「他戸王(おさべのおおきみ)」は、 751 年に生まれたという説と聖武天皇の死後 761 年に生まれたという説とがある。
ところが、756 年の聖武天皇の遺言では、「道祖王(ふなとのおおきみ)」を 皇太子にするということになっていた。道祖王は、塩焼王の弟であり、 藤原氏の血をひく血筋の良さを聖武天皇が重視したものと考えられる。 他戸王が 761 年に生まれたのだとすれば、道祖王が血筋の上で最も 良かったということで納得できる。しかし、このことは結果的には混乱を招いた。 翌 757 年に、同性愛疑惑のため、孝謙天皇によって道祖王は皇太子を廃される。

757 年、舎人親王の息子の大炊王(おおいのおおきみ)が皇太子に立てられる。 これには藤原仲麻呂の強力な推薦があったと見られる。藤原仲麻呂は紫微中台 (光明皇后の家政機関)の長官で、当時大きな権力を持っていた。これには、 橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)が反発し、むしろ聖武天皇が考えていた 皇統の血筋に沿った塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王 (安宿王、黄文王は長屋王の息子)の4人のうちの一人を天皇にしようと考え、 クーデターを企てた。ところが、これが密告により発覚し、 粛清を受けることになった(橘奈良麻呂の変)。黄文王、道祖王は獄死、 安宿は流罪となった。塩焼は、あまり関わっていなかったということで 罪に問われないことになった。

758 年、孝謙天皇が譲位し、大炊皇太子が淳仁天皇になる。 しかし、孝謙は淳仁天皇を臣下と見ていたために、2人の間はあまり うまくいかなかった。759 年、光明子(光明皇后)が舎人親王に天皇としての 尊号を贈ることを勧めたのに対して、孝謙が反対したが、結局淳仁天皇は 光明子の意見を受け入れて、舎人親王に尊号が献上された。 760 年、淳仁と孝謙の仲を取り持っていた光明子が死んで、 淳仁と孝謙の仲は悪化。淳仁が道鏡に関して孝謙に意見を述べたのをきっかけにして、 761 年、孝謙は淳仁の天皇としての権限を剥奪した。 さらに 764 年、孝謙は淳仁の廃位を武力で行う。 藤原仲麻呂(恵美押勝)はこれに抵抗するものの討たれてしまう(恵美押勝の乱)。 塩焼王もこれに巻き込まれて一緒に討たれる。そのようにして、 孝謙は淳仁の廃位に成功し、自ら称徳天皇として重祚する。 淳仁は、765 年、おそらく処刑されたか自害したかで死ぬ。

称徳天皇は、766 年、道鏡を法王にして、さらに 769 年、道鏡を 天皇にすることを画策する。称徳は、道鏡の次の天皇としては 他戸王を考えていたようである。道鏡を天皇にしようとしたことは 称徳の横暴と見られることも多いが、他戸王へ引き継ぐための中継ぎと 考えていたとすれば、聖武天皇が仏教を大切にしていた考えを受け継いだ という面もあると考えられる。称徳は、道鏡の即位を実現するために、 宇佐八幡を利用しようとする。宇佐八幡は、大仏造立を助けたとされる神である。 側近の尼の弟の和気清麻呂が天皇の特使として宇佐八幡に行ったが、 道鏡を天皇にするなという神託を持って帰ってくる。称徳天皇も 以後、道鏡を天皇にすることは諦めたようである。

同じ 769 年、宇佐八幡神託事件より前、塩焼の妻の不破内親王が、 息子の氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を皇位に付けるために 称徳天皇を呪い殺そうとしたとされ、処罰された。志計志麻呂は流罪となった (氷上志計志麻呂の変)。これは冤罪で、著者の推測では、 称徳天皇と井上内親王が、他戸王の皇位継承を確実にするために、 競争者の追い落としを図ったものと見られる。

そういった紆余曲折の末、770 年の遺言で次期天皇に指名されたのは、 白壁王であった。そこで、同年、白壁王が即位して光仁天皇となる。さらに同年、 妻の井上内親王が皇后になり、翌 771 年、息子の他戸王が皇太子となる。 ここまでは順調で、結局聖武天皇が考えていたプランの一つに 戻ったかのように見えた。ところが、772 年、井上皇后は光仁天皇を 呪い殺そうとしたという容疑で、皇后を廃される。著者の推測では、 井上は自分自身が天皇になりたかったのではないかと見る。さらにそれの巻き添えを 食らって、他戸は、井上の息子だという理由で皇太子を廃される。 775 年、井上と他戸の母子はおそらく殺害された。

この結果、772 年、山部親王(やまべのみこ)が皇太子となる。 山部親王は母親が渡来人系(高野新笠)だったので本来は皇太子に なるはずもなかったのだが、 藤原百川(式家)の尽力によって立太子されることになった。 781 年、山部親王は即位して桓武天皇となる。 桓武は、自分の血筋を少しでも聖武につなげるために、 異母妹(母は聖武の子の井上内親王)の酒人内親王を娶っている。

782 年、氷上志計志麻呂の弟の川継(かわつぐ)がクーデターを計画したとして、 母親の不破内親王とともに流罪となる(氷上川継の変)。事件の真相は闇の中だが、 桓武天皇にしてみると、自分より血筋の良い氷上川継が疎ましかったのかもしれない。

その後、桓武天皇は、ボロボロになった文武皇統に代わって、 光仁皇統を確立することを考える。三人の息子である平城天皇、 嵯峨天皇、淳和天皇(いずれも母親は藤原氏式家の女性)の3系統で 皇統を保つ計画であった。しかし結局は、いくつかの政争の末、 藤原氏北家と結んだ嵯峨系で皇位が継承されることになる。

大仏建立計画

大仏建立は、国土計画プランでもあった。聖武天皇のプランは、 唐の洛陽と龍門の盧舎那仏の関係をモデルにしていて、 恭仁京(くにのみや)を都とし紫香楽(しがらき)に大仏を据えると いうものであった。

大仏建立はボランティア(当時の用語では「知識」という)で やるんだぜ、というのが建前であった。もちろんそんな建前で 動いているわけではないのだが、この建前を守るために聖武天皇は いろんなパフォーマンスをやっている。たとえば、民間布教実践者として 有名だった行基を参加させるとか、自ら出家して 自分も仏に仕えるボランティアの一人であることを演じて見せるとか いったようなことである。さらに、鑑真を招聘したのも、聖武天皇自身の 受戒が目的だったようである。