八幡神と神仏習合
逵日出典(つじ ひでのり)著
講談社現代新書 1904、講談社
刊行:2007/08/20
名大生協で購入
読了日:2007/09/17
八幡神の起源をネットで調べようとすると、諸説紛々としていて混乱する。
家の近くにも「城山八幡宮」があるように、非常にポピュラーな信仰で
あるにもかかわらずである。結局よくわからないのかなあ、と思っていたら、
比較的きっちり一般向けに解説した本書が登場した。おかげで
八幡神の起源がかなりよくわかるようになった。ただし、
以下のようにサマリーを書いてみると良く分かるのだが、
前後のつながりが弱いところがある。たとえば、隼人征伐が
どのように八幡神発展のきっかけとなったのかが不明確である。また、
どうして託宣をたくさん行って、しかも道鏡事件のように朝廷が
わざわざ宇佐神宮にまでおうかがいを立てに行くのか、といった
問いには答えていない。無論、古い歴史にははっきり分からない点も
多いことは理解できるが、分かっていることと分かっていないことの
境目がよくわからないことが問題である。
この本は、地図が付いているところが良い。おかげで、
地名に関しては不明なところがほとんどない。
以下各章のサマリー
サマリー
第1章 神奈備信仰(神体山信仰)と仏教の伝来
日本古来の信仰の基本的な形態は神奈備信仰(神体山信仰)である。
それは次の形を取る。[(1) 神は天から降臨して神体山に宿る。
そこで山頂付近に山宮を置く。(2) 山宮から山麓の里宮に神を迎える。
(3) 必要に応じて、さらに田圃の真ん中に神を迎える(田宮または野宮)。]
そして、春に神を迎え(祈年:としごい)、秋に神を送る(新嘗:にいなめ)。
やがて、神が常住すると考えられるようになって、氏神(祖先神)の
考え方が出てくる。神社にはもともとは社殿がなく、社殿が建てられるように
なったのは仏教の影響である。
仏教が日本に入ってきたときも、少なからず在来の信仰の影響を受けた。
本来の深遠な理論は忘れられ、呪術的で現世祈願的な形で受け入れられた。
道教の神仙思想と在来の神体山信仰との影響で、山岳修行がさかんになった。
第2章 神仏習合現象の始まり
神仏習合の支えになった考え方に「神身離脱思想」がある。
神は神であることを苦悩しており、仏の力で救われる、という思想である。
山岳修行者によってこの考えが広まり、8世紀(奈良時代)に
地方から神宮寺が出現し始める。
第3章 八幡という神の成立
八幡神は、宇佐において次の3つの段階を経て成立した。
- まず、地元の豪族宇佐氏による神体山信仰があった。
「日本書紀」の一書にそれを反映した話がある。それは、
天照大神の生んだ3女神が「宇佐嶋」に降臨する、というものである。
これは、宇佐氏が大和政権に組み込まれたことを示すものであろう。
3女神はやがて「比売(ひめ)神」という観念に変わってゆく。
- 新羅の秦氏系の人々が豊前の香春(かわら)に住み着き、やがて
東へ勢力を伸ばした。これが辛嶋氏である。その新羅の神が土着の神と混ざった。
新羅の神は、すでに道教と仏教の影響も受けていたと見られる。
- 6世紀には宇佐氏が衰微し、代わりに大神(おおが)氏が入ってくる。
大神(おおが)氏は、おそらく大和の三輪山を奉斎する大神(おおみわ)氏の
一族である。大神氏が応神天皇霊を付与することで、八幡神が成立した。
第4章 八幡神の発展と神仏習合
8世紀初頭には大神氏が祭祀の実権を握っていた。
このころ、宇佐氏が再興してきて、大神氏は宇佐氏と提携したようである。
宇佐氏出身の山岳修行者の法蓮がこれに関わっている。
法蓮と八幡神を結ぶ伝承が存在し、これが提携を反映していると見られる。
同時に、法蓮と結んだことにより、八幡神に神仏習合の色が強まる。
この神仏習合は、神身離脱思想を伴わないのが特徴である。
725 年、現社地の小椋山に社殿が作られて、同時に神宮寺が2つ作られる。
法蓮の仏教が弥勒信仰を中核としていたのに伴い、
神宮寺のひとつは弥勒禅院であった。
この2つの神宮寺は、738 年になって統合移築されて、八幡神宮弥勒寺となった。
八幡神は、719-720 年の隼人の乱の征伐に力があった。これが、朝廷の
信頼を得るきっかけの一つだったようである。
747 年、八幡神は、大仏造立へ全面的な協力を宣言した。
大仏が完成したときには、朝廷から位階、封戸、位田が与えられた。
第5章 習合現象の中央進出と八幡大菩薩の顕現
地方から始まった神仏習合が、中央に受け入れられる基となった考え方が
護法善神思想である。日本の在来の神を仏教の護法善神と同一視したのである。
この考え方によって、寺院の鎮守が建てられることになる。
初期には八幡神が勧請されることが多かった(東大寺、大安寺、薬師寺など)。
773 年には、大神氏を大宮司の家柄に、宇佐氏を少宮司の家柄に、
辛嶋氏を禰宜(ねぎ)・祝(はふり)の家柄にすることが決まる。
神身離脱思想は発展して、神に菩薩号を奉るという考え方になってゆく。
奈良時代末期に、「八幡大菩薩」という呼称が用いられるようになってくる。
第6章 本地垂迹説の成立
10世紀頃に本地垂迹説がまとまってくる。本地垂迹説とは、
本源としての仏や菩薩が、迹(あと)を垂(た)れ、神となって形を現す、
という考えである。本地仏が設定されることによって、
地方神が全国的な広がりを持つことができるようになった。
八幡神の本地は、もともと釈迦三尊だったようだが、
11世紀のある時期から阿弥陀三尊に変化した。
また、神仏習合が行われたことにより、僧形八幡神像が作られるようになった。
第7章 八幡仏教との国東進出
国東半島の山々は八幡系修験の場となった。
第8章 八幡信仰の全国的広がりと神仏習合
860 年、石清水八幡宮が成立する。国家鎮護の仏神として実現した。
神仏が混在しており、僧侶が実権を握っていた。伊勢神宮につぐ
第二の宗廟として尊崇された。
八幡神は、源氏の氏神とされたことで、さらに発展する。
鎌倉に鶴岡八幡宮が作られ、武士の崇敬を集めるようになった。
これも僧侶が最高責任者となる神仏習合の神社だった。