山之口貘詩文集

山之口貘著
講談社文芸文庫 や G1、講談社
刊行:1999/05/10
文庫の元:「山之口貘全集」(思潮社刊)から選ばれた
名古屋栄の丸善名古屋栄店で購入
読了日:2007/03/16

ちょっと気分が落ち込んだとき、山之口貘の「天」を思い出した。
草にねころんでゐると
眼下には天が深い



太陽
有名なものたちの住んでゐる世界

天は青く深いのだ
みおろしていると
体躯(からだ)が落つこちさうになつてこわいのだ
僕は草木の根のやうに
土の中へもぐり込みたくなつてしまふのだ

この詩をどうして知っていたのかといえば、私の記憶だと、たしか ずっと前に読んだ丸谷才一の国語教科書批判の中に書かれていたからである。 小学校だか中学校だかの教科書にこの詩が載っていて、こんな絶望の詩が 教科書に載っているのは変だと思って教師用ガイドを見てみたら、 やっぱり教科書に載せた人がこの詩が伝えていることを全く理解していなかった ことがわかった、というような内容だったと思う。教科書に載せた人は、 この詩を、単に芝生に寝転んでまわりを見たという牧歌的な詩だと思ったらしい。 ネット検索をしてみると、今でも間違って読む人が多いようである。 独特のリズム感のせいで何となく親しみやすさをおぼえてしまうからだろう。

山之口貘は子供が読むような詩など書かない人である。山之口貘の詩は、 自身の「生」「生き方」「生活」と密着している。 ここに収録されているエッセイ「詩とはなにか」の中でも、 「ぼくの考えている詩は、抜き差しならないほど、生活と結びついている ようである」と書かれている。貧乏であっても、無力であっても、 それでも自分は生きているのだというような心の叫びがことばになって 噴出している。生きるということが詩を書くことなのである。 若い頃はひどく貧乏だったらしくて、結婚前の詩にはとくにその色が濃い。 「天」もそのような詩のひとつである。 だから、彼の詩は、気分が少し落ち込んだときに読んでみると心に染みる。

山之口貘は沖縄出身だから、沖縄のこともよく書いている。彼の時代には、 沖縄は一種の外国である。今ではふつうにこのへんでも食べるようになった チャンプルーなんかの沖縄料理のことがエッセイ「チャンプルー」に書かれている。 あるいは、東京の暴風は沖縄の暴風に比べると全然たいしたことがないと、 エッセイ「暴風への郷愁」 に書かれている。最後に、沖縄が今よりもずっと異国だったことが凝縮されている詩 「会話」の冒頭部分を引用するならば、

お国は?と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、 刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずっとむかふ