秀吉神話をくつがえす

藤田達生著
講談社現代新書 1907、講談社
刊行:2007/09/20
名大生協で購入
読了:2008/01/23
秀吉は、自らの存在を大きく見せるために「秀吉神話」を捏造した。「皇胤説」や「日輪受胎説」が その例である。江戸時代には「庶民の英雄」になり、明治政府下では「軍国主義の象徴」となり、 戦後は「改革と平和の実践者」とされたりした。そのように、秀吉は数々の神話で粉飾されているので、 実像があまり伝わっていない。それを暴いて本当の姿を伝えようというのが本書のねらいである。 といっても、論考の主題は、第2章の「本能寺の変」と第3章の「関白の「平和」」にあり、いずれも 秀吉だけにとどまらず、その周辺のことがらも含めた包括的なものになている。論旨は明快で、 少なくとも私のような素人にとってはわかりやすい。

第2章の「本能寺の変」では、本能寺の変の背景を十分に読み解いて、それが偶発的なものではなく 構造的な必然性を持ったものとして説かれている。本能寺の変は、本質的には、明智光秀と秀吉の間で起こった 織田政権内の勢力争いの最終幕であると本書では考えられている。織田信長は、部下を激しく競わせたために、 蹴落とされた家臣が謀反を起こすという事件が何度も起こっている。その最後のものが本能寺の変というわけである。 光秀は、天正八年には織田政権家臣団の筆頭となっていた。そこに秀吉が追い落としを仕掛けてきた。とくに、 四国戦略において、光秀は長宗我部氏と近く、長宗我部元親を通じた四国支配を考えていた。一方、 秀吉は、長宗我部氏と対立する三好氏に近づき、三好氏を親信長にすることに成功した。これによって、 信長の四国支配の方針も転換され、それで織田政権内の秀吉の地位が高まることとなった。さらに、秀吉は、 信長の五男の秀勝を跡取りとすることで、織田家一門の一部となっていった。それと同時に、信長の版図経営の 方針も変わってゆき、畿内には一門・近習を配することにしてきたので、光秀は(著者の推測だと)石見に 左遷されそうになっていた。こうした織田政権内での地位低下が原因で、光秀は謀反を起こしたということである。 光秀は、将軍足利義昭を中心として、長宗我部、毛利、上杉などと結んで織田包囲網を作り、新たな政権を作る計画だった。 しかし、秀吉のその後の対応があまりにも速かったために失敗をした。著者によると、この秀吉の対応の速さからみて、 秀吉は謀反を予期していたのではないかと推測している。秀吉は、当時としては桁外れな迅速さで情報をつかみ、 周辺大名には虚の情報を含めて自分に有利な情報を発信し続けることで、山崎の戦いで圧勝することができた。

第3章の「関白の「平和」」では、秀吉が本能寺の変の後、どのようにして全国を制圧したかが書かれている。 とくに、秀吉が平和の実践者だという藤木久志氏の説を論駁することに重点が置かれている。 秀吉のやり方が武力制圧であり、その特徴が「帝国」を短期間で作ったことにあることが論じられている。

秀吉は、本能寺の変の後も織田家の家臣という立場であったが、巧妙に主君を蹴落としてゆく。 まず、信雄・信孝兄弟を仲違いさせて、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家・織田信孝連合を滅ぼす。 次に、小牧・長久手で、織田信雄・徳川家康連合と戦う。このときは、家康を屈服させることには失敗するものの、 信雄を屈服させることには成功する。その意味で、小牧・長久手の戦いは「天下分け目の戦い」であった。 あとは、中国、四国、北国、九州、関東・奥羽と次々に屈服させてゆく。この際に出された「惣無事令」を 藤木氏は平和令であると解釈したのだが、著者はこれは単なる停戦令だとする。その論拠も素人目には 納得できる。本ではいろいろ細かく論証されているが、ともかく朝鮮に出兵するような帝国主義的考えの人を 平和主義者というのは無理がありそうである。

その他、いくつか初めて知ったこと:

(1) まず、よく伝わっている「日吉丸」という呼称や、「猿」という綽名も創作の可能性が強いと書かれているのに驚く。 「日吉丸」は、「日輪受胎説」に登場する日吉山王権現に由来する捏造のようで、「猿」も日吉神社の神獣という ことらしい。信長が秀吉につけた綽名は「禿鼠」だったそうだ。

(2) 著者は、石井進の研究に基づいて、秀吉の出自は農民ではなく賤民的な商人だったのだろうと考える。 それが、秀吉の類稀な情報収集能力や経済感覚につながっていると考えている。 そう言われると、秀吉が、検地・刀狩といった百姓弾圧策を取ったことも納得できる気がする。 秀吉が百姓出身だという話は、百姓に連帯感を持たせるためにでっちあげられた神話だというのが、 著者の考えである。