悲劇のロシア ―ドストエフスキーからショスタコーヴィチへ

亀山郁夫著
NHK 知るを楽しむ この人この世界 2008 2/3月、日本放送出版協会
刊行:2008/02/01
名大生協で購入
読了:2008/03/17
ロシア芸術の特徴はその悲劇性にあるわけで、そのドラマチックな陰惨さが人を引き付ける。 番組も、亀山氏の語りにけっこう惹きつけられるものがあり、楽しみにして見ていた。 このシリーズは、前半4回はドストエフスキーの4大長編(5大長編のうち「未成年」以外)の紹介で、 後半はマヤコフスキー、ブルガーノフ、エイゼンシテイン、ショスタコーヴィチの紹介。 とはいえ、私は恥ずかしながら、ドストエフスキーをまだ読んだことがないし、後半4人の芸術家でも 比較的おなじみなのはショスタコーヴィチだけではある。

ドストエフスキー「罪と罰」

「善」のために人を殺すことの罪が問われる作品。主人公ラスコーリニコフは、 一方では、貧しい人々には親しい感情を抱いているのだが、 もう一方で、「天才は凡人の権利を奪う権利がある」という傲慢さを抱いている。 そこで、金貸しの老婆を殺しても罪の意識を感じない。

こういう記述を見て、私は「ネットウヨク」ということばを思い出した。 いわゆる「ネットウヨク」な人々は、私の想像では、周囲の人々には親しい感情を抱いているのだが、 一方で、いわゆる「左翼」とか「中国朝鮮」とかいったような人々に対しては、理由のない優越感を 抱いているように見える。

ドストエフスキー「白痴」

根深いトラウマを持った3人の男女の三角関係であると読み解かれている。 トラウマがあまりにも深いので、入口も出口もなく、愛も成就しない。 小説のモデルとなった経験は、ありふれた三角関係であった。しかし、 ドストエフスキーの手にかかって、それは不条理に塗り込められたドラマに生まれ変わってしまった。

ドストエフスキー「悪霊」

革命家の内ゲバ事件を下敷きにしているのだが、単なる内ゲバを越えて、 より巨大で徹底した悪が描かれている。その悪とは「命に対する無関心」であると著者は総括している。 それを体現するのが、主人公スタヴローギンである。

ずっと前に、これを下敷きにしたワイダ監督の映画「悪霊」を見て、けっこう感動したことを覚えている。 しかし、実のところ、中身はあまりよく覚えていない。映画の方は、 殺されるシャートフの方を主人公にしているから、原作とはだいぶん主題が違っていたみたい。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

親殺しの物語、なのだが、犯人は誰かというだけの単純な問題ではない。 真の実行犯だけではなく、心の中で親が死ぬことを願っていたかどうかという問題が絡まる。 というのも、その殺された「親」が悪人であるという背景がある。そういうわけで、 物語は極めて重層的な問題を提起することになる。

マヤコフスキー

革命詩人として知られる。が、本質的には抒情的で、おそらくそれがために革命後は停滞し、 やがて自殺へと追い込まれる。晩年にはチェカーによって監視されていたらしい。遺書の 一節が紹介されている:

これがいわゆる…「一件落着」
愛のボートは生活とぶつかってこなごな

ブルガーコフ

長編小説「巨匠とマルガリータ」によって有名。二千年前のエルサレムと現代が交錯する壮大な 小説である。しかし、これは生前は日の目を見ることがなかった。ブルガーコフは、 最初は風刺小説などで知られていたものの、やがてスターリン独裁の下で批判を受ける。 死の直前まで「巨匠とマルガリータ」の改訂を続けていたものの、原稿は死後26年間隠されていた。

エイゼンシュタイン

映画で権力に歯向かうのは困難である。なぜなら、映画というものは個人で作るものではないので、 隠すことができないからだ。まして当時のソビエトでは(1918年以降)映画は国家のものであったから、 権力と対峙するのは容易ではない。というわけで、エイゼンシュタインも、当時の権力の意向に沿いつつも、 ちょっと沿わない部分を潜り込ませようとしては、そういう部分をカットされたり上映禁止にされたりしている。

ショスタコーヴィチ

権力に反発するという意味では、音楽はやりやすい方であろう。表現されるメッセージが 直接的でないので、二枚舌を潜り込ませることができる。ということで、ショスタコーヴィチは 暗号のように個人的なメッセージを音楽に入れていたことが今では知られている。

ここで例に挙がっているのは、主として交響曲だけれど、実のところ私はあまり聞いたことがない。 私が好きなのはむしろ弦楽四重奏曲で、こっちのほうはより個人的なメッセージが顕わになっている感じである。 とくに後期のものには悲痛な音が並んでいる。