ドストエフスキー「罪と罰」
「善」のために人を殺すことの罪が問われる作品。主人公ラスコーリニコフは、 一方では、貧しい人々には親しい感情を抱いているのだが、 もう一方で、「天才は凡人の権利を奪う権利がある」という傲慢さを抱いている。 そこで、金貸しの老婆を殺しても罪の意識を感じない。
こういう記述を見て、私は「ネットウヨク」ということばを思い出した。 いわゆる「ネットウヨク」な人々は、私の想像では、周囲の人々には親しい感情を抱いているのだが、 一方で、いわゆる「左翼」とか「中国朝鮮」とかいったような人々に対しては、理由のない優越感を 抱いているように見える。
ドストエフスキー「白痴」
根深いトラウマを持った3人の男女の三角関係であると読み解かれている。 トラウマがあまりにも深いので、入口も出口もなく、愛も成就しない。 小説のモデルとなった経験は、ありふれた三角関係であった。しかし、 ドストエフスキーの手にかかって、それは不条理に塗り込められたドラマに生まれ変わってしまった。
ドストエフスキー「悪霊」
革命家の内ゲバ事件を下敷きにしているのだが、単なる内ゲバを越えて、 より巨大で徹底した悪が描かれている。その悪とは「命に対する無関心」であると著者は総括している。 それを体現するのが、主人公スタヴローギンである。
ずっと前に、これを下敷きにしたワイダ監督の映画「悪霊」を見て、けっこう感動したことを覚えている。 しかし、実のところ、中身はあまりよく覚えていない。映画の方は、 殺されるシャートフの方を主人公にしているから、原作とはだいぶん主題が違っていたみたい。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
親殺しの物語、なのだが、犯人は誰かというだけの単純な問題ではない。 真の実行犯だけではなく、心の中で親が死ぬことを願っていたかどうかという問題が絡まる。 というのも、その殺された「親」が悪人であるという背景がある。そういうわけで、 物語は極めて重層的な問題を提起することになる。
マヤコフスキー
革命詩人として知られる。が、本質的には抒情的で、おそらくそれがために革命後は停滞し、 やがて自殺へと追い込まれる。晩年にはチェカーによって監視されていたらしい。遺書の 一節が紹介されている:
これがいわゆる…「一件落着」
愛のボートは生活とぶつかってこなごな
ブルガーコフ
長編小説「巨匠とマルガリータ」によって有名。二千年前のエルサレムと現代が交錯する壮大な 小説である。しかし、これは生前は日の目を見ることがなかった。ブルガーコフは、 最初は風刺小説などで知られていたものの、やがてスターリン独裁の下で批判を受ける。 死の直前まで「巨匠とマルガリータ」の改訂を続けていたものの、原稿は死後26年間隠されていた。
エイゼンシュタイン
映画で権力に歯向かうのは困難である。なぜなら、映画というものは個人で作るものではないので、 隠すことができないからだ。まして当時のソビエトでは(1918年以降)映画は国家のものであったから、 権力と対峙するのは容易ではない。というわけで、エイゼンシュタインも、当時の権力の意向に沿いつつも、 ちょっと沿わない部分を潜り込ませようとしては、そういう部分をカットされたり上映禁止にされたりしている。
ショスタコーヴィチ
権力に反発するという意味では、音楽はやりやすい方であろう。表現されるメッセージが 直接的でないので、二枚舌を潜り込ませることができる。ということで、ショスタコーヴィチは 暗号のように個人的なメッセージを音楽に入れていたことが今では知られている。
ここで例に挙がっているのは、主として交響曲だけれど、実のところ私はあまり聞いたことがない。 私が好きなのはむしろ弦楽四重奏曲で、こっちのほうはより個人的なメッセージが顕わになっている感じである。 とくに後期のものには悲痛な音が並んでいる。