神になった日本人

小松和彦著
NHK 知るを楽しむ この人この世界 2008 8/9 月、日本放送出版協会
刊行:2008/08/01
名古屋栄のあおい書店で購入
読了:2008/09/29
日本の歴史においては、人を神とすることがときどきある。「祟り神」である場合と「顕彰神」である場合がある。 それから、神仏習合もキーワードの一つである。神社だけでなく、仏教施設の霊廟に祀られている場合もある。 ここで挙げられている例を見てゆくと、人が神になるのに、さまざまのパターンがあることがわかる。

政治と宗教との関係も、常に難しい問題である。豊国神社、東照宮、明治政府の神々たちと、 豊臣秀吉以来宗教を政治的に利用する悪しき伝統があることがわかる。私は、こういうのは嫌らしいので、 もはや廃絶しても良いのではないかと思う。東照宮は文化的価値が高いから、単なる文化施設に なったらとも思う。どうせ神仏分離をしたせいで、もともとの宗教空間の意味はすでに失われているのだから。

以下、サマリー。

談山神社/藤原鎌足
何も知らないと、藤原氏が作った顕彰神かなあ、ということになるが、ものごとはそれほど単純ではないという ことが紹介されている。まず、中心となる十三重の塔は、鎌足の墓であり、その意味では菩提寺である。 実際、江戸時代以前は多武峯寺という天台宗の寺であった。鎌足の神像が祀られているということで、 神社的な要素があり、926 年には「談峯大権現」の神号が授与されている。ということで、もともと 神仏習合の寺社なのである。話がさらに複雑なのは、真の被葬者が誰かが本当はよくわかっていないらしいことである。 梅原猛の説だと、真の被葬者は、鎌足の子とされているが本当は孝徳天皇の子である定慧(じょうえ)なのだという。 非業の死を遂げた定慧(じょうえ)が「祟り神」となったものだというのである。その後、 多武峯寺が藤原氏との結びつきを強めるために鎌足を被葬者ということにしたのであろう。そして、 談山神社が生まれたのは、神仏分離が行われた明治時代 1869 年である。このときはっきり鎌足は「顕彰神」となった。
白峯寺と白峯神社/崇徳上皇
崇徳上皇は不幸な生涯を送った。崇徳上皇は鳥羽天皇の子なのだが、実際は鳥羽天皇の祖父の 白河法皇の子であるという噂があったために、父の鳥羽天皇から嫌われた。それが影響して、鳥羽上皇が 死んだとき、弟の後白河天皇との間で権力争いが起こった。結局、保元の乱で決着が付き、 崇徳上皇は讃岐に流された。死ぬまで帰京を許されず、死後怨霊となって復讐することを誓っていたとされる。 それで、京で災厄が続いたあと、墓は天皇陵とされ、怨霊を鎮めるため頓証寺が建立された。 のちに、頓証寺は白峯寺に取り込まれ、頓証寺殿となった。 さらにずっとのち、明治天皇が、崇徳上皇と淳仁天皇の怨霊を怖れて、京都に白峯神社を作った。 というわけで、崇徳上皇は、維新政府も恐れるビッグな「祟り神」なのであった。
天龍寺、吉水神社と吉野神宮/後醍醐天皇
後醍醐天皇は北朝(室町幕府)との争いの中で死んだ。なので、北朝側からすると怨霊になるし、 南朝側からすれば顕彰の対象になる。臨済宗の天龍寺は、足利尊氏・直義の兄弟が 後醍醐天皇の怨霊を怖れて建てた施設である。天龍寺の多宝殿には後醍醐天皇の尊像が安置されている。 一方、南朝側では、吉野の御陵を守ると共に、後醍醐天皇の尊像を吉野修験の僧坊である吉水院に安置した。 吉水院は、明治の神仏分離のときに吉水神社となり、後醍醐天皇を祭神とした。 さらに、明治政府は、後醍醐天皇を顕彰するために、吉野宮(のちに吉野大社→吉野神宮)を作った。 しかし、明治天皇が北朝系であることを考えると怨霊鎮めの意味もあったのかもしれない。
東勝寺宗吾霊堂と口之宮神社/佐倉惣五郎
佐倉惣五郎(宗吾)といえば、義民として知られているが、実像は実はよくわからない。重要なのは、 実像ではなくて、伝説であり物語である。農民の苦しみを将軍に直訴して、処刑されたと言われている。 その後「祟り」のため、藩主堀田正信は改易となる。その惣五郎の刑場で、供養のための堂が作られたのが 発展して、大正時代に真言宗豊山派の鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂となった。寺であるにもかかわらず、 本尊が宗吾の霊である。もう一つ、惣五郎を祀る場所に、現在の口之宮神社がある。 惣五郎の刑死の百回忌を、藩主堀田正亮が行った。その施設として「口の明神」が作られた。 怨霊の鎮魂という意味だけではなく、領民の慰撫という意味もあったと思われる。この「口の明神」は 明治になって「口之神社」「口之宮神社」に改められた。しかし、大正時代に焼失して以降は、 宗吾信仰は宗吾霊堂に統合された。ただし、2001 年に口之宮神社が再建された。
豊国神社と方広寺/豊臣秀吉
豊臣秀吉は、生前、死後神として祀られることを望んだ。これは日本史上初めてのことである。 秀吉は、京都東山の阿弥陀ヶ峰の周辺を豊臣家の一大宗教空間にすることを構想していた。 これは、豊臣政権の将来にわたっての安泰を願っての計画だったと考えられる。 この場所が選ばれたのは、一向宗を抑えるという意味もあったのだろう。ここは阿弥陀信仰の聖地である とともに、西に本願寺を見下ろす位置にあるからである。
秀吉は、まず、三十三間堂の北側に方広寺大仏殿を作った(1588 年造営開始、1595 年完成)。ただし、 大仏は地震のために壊れてしまった。方広寺は菩提寺にするつもりだったのかもしれない。 秀吉の死後、その遺骸は、1599 年に阿弥陀ヶ峰に作られた廟社に葬られた。 そのとき、秀吉の霊は豊国大明神とされ、広大な豊国社が作られた。これは神仏習合の社である。 ところが、江戸時代になって、徳川政権は、豊国社を廃絶した。明治時代になって、反徳川のシンボルとして 明治政府は豊国社を再建して、かつての方広寺大仏殿の跡に豊国神社を造った。 明治になって、豊国廟も元とは違う位置に再建された。
東照宮、二荒山神社と輪王寺/徳川家康
徳川家康も秀吉の真似をして、死後神となることにした。祀られる場所が日光になったのは、 僧天海の勧めによる。天海は、修験道の霊場として衰微していた日光の再興を望んだ。 天海は、神号を修験道系の権現とし、東照権現とした。東照とは、東から全国を照らすという意味である。 天海は、天台宗の教理と山王信仰を結びつけた山王一実神道を創唱して、東照信仰に理論的基盤を与えた。 東照三所権現として、東照権現、山王神(日吉神社の日吉神)、魔多羅神(阿弥陀仏の守護神)を併せ祀った。 1617 年、東照社が造営され、別当寺院として大楽院(現在の輪王寺)が創建された。1645 年、東照宮という宮号が下賜された。 成り立ちからして神仏混淆の社であったのだが、明治政府の神仏分離で、東照宮、二荒山神社、輪王寺に 分離された。さらに、三神を、家康、秀吉、頼朝にさせられて、訳がわからなくなった。
南洲神社と浄光明寺/西郷隆盛
西郷隆盛は、死後間もなくから伝説の人となり、やがて崇拝の対象となった。 西南戦争 (1877 年) の死者の遺骸は、政府はしばし放っておいたが、1879 年、有志が改めて埋葬して「参拝所」を 作った。1913 年、それは改築されて「南洲祠堂」となった。1922 年、それは「南洲神社」へと発展した。 このように、地元の人が主導して、西郷を顕彰するための神社が作られた。
現在、南洲公園には、西郷を慰霊・顕彰する施設が4つある。一つ目は、西南戦争の死者を葬る南洲墓地である。 二つ目に、墓地を管理する浄光明寺がある。この寺は、明治政府の廃仏毀釈によりいったん廃されていたが、 その後再興された。三つ目は、南洲神社、四つ目は、鹿児島市立西郷南洲顕彰館 (1978 年開館) である。
お竹大日堂/お竹
江戸時代の寛永年間、江戸の佐久間家にお竹という下女がいた。出羽出身であった。あるとき、出羽の行者が訪れ、 お竹は大日如来の化身であると告げた。以後、お竹は念仏三昧の道に入った。お竹の没後か生前かはっきりしないが、 出羽の正善院に「お竹大日堂」が作られた。その後、江戸で出開帳が仕掛けられ、お竹人気が高まり、 芝居なども作られた。明治以降はだんだん忘れられていった。
増田神社/増田敬太郎
明治時代、佐賀県の東松浦郡入野村高串(現唐津市肥前町田野)に増田敬太郎という巡査がいた。 当時、その地ではコレラが流行しており、増田巡査も発病し、赴任わずか3日目で亡くなった。 1895 (明治 28) 年のことであった。その後まもなくコレラの流行が収まった。それで、 「増田巡査はコレラを背負ってあの世に行った」と理解された。遺骨の一部が秋葉神社の境内に埋葬された。 翌 1896 年、その場所に祠が立てられ、1905 年には「増田神社」の額がかかる鳥居ができた。 昭和初期に、佐賀県警察がこの神社と祭礼に注目し、警察官の士気を高める材料にしようとした。 そこで劇を作って宣伝したために、広く知られるようになった。1942 年には、本体であったはずの 秋葉神社は増田神社に合祀され、増田神社の方が本体になった。