ここに収録されている2つの戯曲は、どちらも三島が秘めていた情念やら迷いやらを 多面的に豊かに表現したものであるように思える。 迷いは、対立する考え方を持った人物を会話させることで表現される。だれか一人だけを勝たせることなく、 はっきりした結論を付けないことで、見る者あるいは読む者に想念の複雑さを印象付けることができる。 「サド侯爵夫人」においては性とか善悪とかタブーとかの問題、 「朱雀家の滅亡」においては戦争と忠誠と無作為の問題が扱われている。 会話の形によってそれらの主題が効果的に浮き彫りになっている。
衝突する会話による三島の演劇の作り方は、三島本人が「サド侯爵夫人」の跋文に書いている。
サド夫人は貞淑を、夫人の母親モントルイユ夫人は法・社会・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、 サン・フォン夫人は肉欲を、サド夫人の妹アンヌは女の無邪気さと無節操を、召使シャルロットは民衆を代表して、 これらが惑星の運行のように、交錯しつつ廻転してゆかねばならぬ。舞台の末梢的技巧は一切これを排し、 セリフだけが舞台を支配し、イデエの衝突だけが劇を形づくり、情念はあくまで理性の着物を着て歩き廻らねばならぬ。 目のたのしみは、美しいロココ風の衣裳が引受けてくれるであろう。すべては、サド夫人をめぐる一つの精密な 数学的体系でなければならぬ。「サド侯爵夫人」において、このようなやり方は非常に成功していると思う。 ここの2つの戯曲を読んで、三島は、小説家としてよりも劇作家として優れているのではないかと思った。 「サド侯爵夫人」のようなテーマは、下手をすれば猥雑になってしまうところだが、 典雅で詩的な台詞の連続により、見事に昇華している。
ルネ(サド夫人)の第二幕から第三幕への変貌が、貞淑から別れへの答えであるわけだが、 だからといって、第三幕のルネが正しく、第二幕のルネが間違っていたということでもなさそうだ。 どちらのルネも心の真実である気がする。それがこの戯曲を豊かなものにしている。 まず、第二幕では、ルネはアルフォンス・サドのすべてを赦し信じていた。 そこで、第二幕の終りの方では、以下のように語る。
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこって、その吊床の上で人々はお昼寝をたのしみます。 そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房(ちち)、真鍮のお腹を持つようになるのです、磨き立てて ぴかぴか光った。あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば気味がわるいと仰言る。 あなた方は御存知ないんです、薔薇と蛇が親しい友達で、夜になればお互いに姿を変え、蛇が頬を赤らめ、 薔薇が鱗を光らす世界を。それが、第三幕では、ルネは修道院に入りもうアルフォンス・サドとは会わないと決心する。 そのきっかけは、アルフォンス・サドが書いた「ジュスティーヌ」という小説をルネが読んだことである。 この小説は、悪い姉が幸せになり、良い妹が不幸になるという、いわば近代的な不条理小説である。 それを読んだ結果が以下の台詞になる。
あの人の心にならついてまいりましょう。あの人の肉にならついてまりましょう。私はそうやって、 どこまでもついて行きました。それなのに突然あの人の手が鉄になって、私を薙ぎ倒した。 もうあの人には心がありません。あのようなものを書く心は、人の心ではありません。
(中略)
この世でもっとも自由なあの人。時の果て、国々の果てにまで手をのばし、あらゆる悪をかき集めて その上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしているあの人。アルフォンスは天国への 裏階段をつけたのです。
第四幕前半では、常識人を代表する宍戸光康(経隆の弟)が、兄を経済的な窮状から救おうとするが、 経隆は相変わらず無為と孤独な忠誠心によりその申し出を断る。
経隆の独白:私こそは、お上のおん悲しみ、いやまさるおん悲しみ、そのおん苦しみ、いやまさるおん苦しみを、 遠くからじっとお支えする役をつとめるために生まれたのだ。かつて瑞穂の国、日出ずる国であったこの国は、 今や涙の国になった。お上こそはこの国の涙の泉だ。
第四幕後半で、クライマックスを迎える。経隆の子経広の許嫁璃津子が登場する。璃津子は実際本人かもしれないし、 亡霊かもしれないし、弁天の化身かもしれない。そのあたりは微妙にぼやかされて、夢幻能の味わいがある。 ともかく、その璃津子が経隆を責め苛むことで、経隆の忠誠心と誇りの意味が問われてゆく。最後は以下のように終わる。
璃津子:一番先に滅びるべきであったあなたが、まだそうして生き永らえていらっしゃるのは、何故?
経隆:………。
璃津子:滅びなさい。滅びなさい!今すぐこの場で滅びておしまいなさい。
経隆:(ゆっくり顔をあげ、璃津子を注視する。――間。)どうして私が滅びることができる。 夙(と)うのむかしに滅んでいる私が。