キリスト教は邪教です 現代語訳「アンチクリスト」

Friedrich Wilhelm Nitzsche 著、適菜収訳(現代語訳)
原題:Der Antichrist
講談社+α新書 246-1 A、講談社
刊行:2005/04/20
原著刊行:1888 執筆、1895 出版
名古屋栄のあおい書店で購入
読了:2008/07/27

英語版がいろいろなところで見られる。 たとえば、 The Antichrist [H.L. Mencken 訳] (The Project Gutenberg) The Anti-Christ [Walter Kaufmann 訳] (handprint.com)


何とも分かりやすく読みやすいニーチェの超訳である。こういう訳は、意味が改変されていない限り (つまりは難解な文のある一つの解釈であると十分に認められる限りでは)、 私のような素人にはありがたい試みである。実際、以下で例を見るように英語訳と比べてみると、 基本的に意味は変わっていないので、良い訳だと思う。amazon.co.jp のカスタマーレビューでは 訳が悪いのではないかと疑っているものがあったが、そうではないようだ。もともとニーチェは 過激なのである。2日で読めてしまった。

この本では、キリスト教の教えが、いかに生物としての人間の自然なふるまいに反しているかを説き、 人間の本性と現実と行動から素直に出発すべきであることを過激な筆致で書いてある。 論理的な書物ではない。ニーチェの研ぎ澄まされた直感が、キリスト教のウソを鋭く暴きだしている。

批判されているのは、キリスト教ならびにそれに関連しているヨーロッパ思想全般である。 たとえば、カントの「世界の本質としての道徳」は以下のように批判される。 「道徳」とは、わたくし達が作りだしたものであり、自分で発見していくものであり、 抽象的で高所から見下ろしたような「道徳」などはそもそも存在しない。

仏教は、キリスト教と対比して、だいぶん良いとしている。それは、仏教は現実を見ているからだという。 とはいえ、ニーチェが日本仏教を見たら、元の仏教の姿とあまりにも変わっているのを見て、 これはダメだと言うに違いないけれど。


2つの部分で、英訳、それを私が和訳したもの、本書の訳を比べてみよう。 それで、この現代語訳がどの程度の意訳であるかを見ておく。

(1) カント倫理学批判の冒頭部

[H.L. Mencken の英訳] A word now against Kant as a moralist. A virtue must be our invention; it must spring out of our personal need and defence. In every other case it is a source of danger. That which does not belong to our life menaces it; a virtue which has its roots in mere respect for the concept of “virtue,” as Kant would have it, is pernicious.

[上の英訳の私訳] 道徳家カントにひとこと言っておきたい。徳というものは、私たちが作るものである。 私たちが必要に応じて、自分たちを守るために、自然に出てきたものでなければならない。 そうでないものは、危険をもたらしうる。われわれの生と関係なく出てきたものは、われわれの生を脅かす。 カントのように「徳」という抽象概念を奉るところからでてきた徳なるものは、破滅的に有害である。

[本書の訳] 私がカントに言いたいのは簡単なことです。「道徳」とは、私たちの人生において、 私たちが作りだしたものであるということ。そして私たちを守るものであり、私たちにとって必要なもので なければならないということです。決してそれ以外のものであはありません。カントのように単純に 「道徳を大切にしよう」という考えは百害あって一利なし。

(2) キリスト教の不健康さを批判している部分

[H.L. Mencken の英訳] Christianity has the rancour of the sick at its very core ―the instinct against the healthy, against health. Everything that is well-constituted, proud, gallant and, above all, beautiful gives offence to its ears and eyes. Again I remind you of Paul's priceless saying: “And God hath chosen the weak things of the world, the foolish things of the world, the base things of the world, and things which are despised”: this was the formula; in hoc signo the décadence triumphed. ―God on the cross―is man always to miss the frightful inner significance of this symbol? ―Everything that suffers, everything that hangs on the cross, is divine.... We all hang on the cross, consequently we are divine.... We alone are divine....

[上の英訳の私訳] キリスト教の核心には、病める者の怨恨がある。 それは、健康な者と健康への妬みの衝動である。うまく作られたもの、誇り高いもの、勇敢なもの、 そして何よりも美しいものを見たり聞いたりするのが、彼らは嫌なのだ。再び、パウロの貴重な言葉を 思い出していただこう。「そして神は、世の中の弱い者、愚かな者、卑劣な者、軽蔑されている者を選んだ」 (コリント信徒への手紙一、1章27、28節より) これこそが彼らのやり方なのだ―この印にてデカダンスが勝利せり (「この印にて汝は勝利せん」という文句のもじり)。十字架の上の神―この象徴のうちに 隠れた恐ろしい意味には誰もなかなか気がつかない―苦しむ者、十字架に架けられる者は、すべて神聖な存在である。 私たちは皆十字架に架けられる。だから私たちは神聖である。そして、私たちのみが神聖である、と。

[本書の訳] キリスト教は健康な人間に対する、不健康な人間の恨みを基本にしています。 美しいもの、誇りを持っているもの、気力があるもの、そういうものを見たり聞いたりすることが、 彼らにとっては苦痛なのです。私はパウロが言った貴重な言葉を思い出します。 「神は世の中の弱い者を、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」 まさに、これがキリスト教の核心なのです。これによってキリスト教は勝利しました。 私たちは、「十字架にかかった神」という象徴の後ろに隠された恐ろしい目的に気づかなければなりません。 「十字架にかかるものは、すべて神のような存在である。われわれは十字架にかかる。それなので、 われわれのみが神聖である」というカラクリ。

以上分かるように、本書の訳は、原文の意味を損なっていないし、読みやすくて良いと思う。