[第1回 農民 諸国漫遊の旅に出る 10 月 4 日]
テキストと番組とは少し様子が違っていた。テキストは、比較的一般的な話を書いているのに対し、
番組は、常陸の庄屋の息子の益子廣三郎の旅日記を軸にして紹介するという趣向。番組によると、
長旅なので、お金を前もって準備するのが大変なところだったようで、益子廣三郎は村人から少しずつ
寄付をもらっていたということだった。それを事細かに全部記録していたから旅の収支の様子がわかるらしい。
たくさん寄付を貰っていたので、全体の出費の三割くらいはお土産に使っていたというのに驚いた。
何を買ったかまでは紹介されていなかったけど
(2008/01/08 註:第4回の放送で紹介されていた)、
帰りはきっと土産が重くて大変だったんじゃないかな。
伊勢の御師が旅行コーディネーターであるというような紹介のされ方をしていたのにもちょっとびっくり。
内宮は太陽神、外宮は農業神ということにし、農業暦(伊勢暦)をプレゼントし、さらには伊勢に行ったら
サービスをするということで農民のハートをつかむという戦略はなるほどと思った。お伊勢参りが
大人気になるためには、相応の営業活動があったのだということを知った。
[第2回 道中 山あり谷あり助けあり 10 月 11 日]
関所に抜け道が結構あったということが書いてあるのに驚く。「入り鉄砲と出女」が特に厳重に取り締まられたので、
女性が関所を抜けるのは大変だった。ところが、実際はいろいろな抜け道があって、女性もけっこう旅をしていたとのこと。
太平の世の中で、現実的にはあんまり「出女」を取り締まる必要がなかったせいらしい。
平和が娯楽の必要条件というのはいつの時代も変わらないようで。
[第3回 つまらないとは言わせない!腕利き案内人の活躍 10 月 18 日]
旅人は伊勢で大枚をはたいて、代わりに殿様気分で贅を尽した接待を受ける。
庶民にとってはまさに一生に一度の贅沢である。その接待を行うのが伊勢の御師で、
御師は、旅館業とツアーガイドと神主を兼ねた総合旅行業をやっていた。
大枚といっても、名目は神楽奉納金だし、接待はこれ以上ないくらい豪勢だったので、
暴利をむさぼられたという感じはしなかったのだそうだ。
信仰という意味では、内宮よりも外宮の方に人が多く行ったのだそうだ。本来は天照大神の食事を司る役割の外宮が
農業神(ひいては産業神)ということになっていたので、農民を主体とする庶民にはありがたい御利益があるはず
というわけである。
すばらしいもてなしと御利益が口コミで広がるので、お伊勢参りは大流行したのだそうである。
[コラム 鈴木章生「お伊勢参りの名物とみやげ」]
現代の日本人の旅行でもつきものの「名物」や「みやげ」のルーツは江戸時代の旅行にあるという話。
[第4回 おかげ参りのエネルギー 庶民の旅が日本を変えた 10 月 25 日]
江戸時代には60年に一度くらい、集団参宮ブームが起こった。
慶安2年(1649年:式年遷宮の年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年(1830年)、
慶応3年(1867年:ええじゃないか)という5回の大きなブームがあった。
お金がかかるはずのお伊勢参りで、大量の旅人が発生したのは、施行をする者が多かったからだそうだ。
今では信じがたいようなことだけれど、抑圧からの解放と信仰心とが絡み合うと、不思議な事件が
起こるものである。江戸時代は、泰平の世とはいえ、軍事政権ではあったわけで、抑圧が常に眠って
いたのであろうか。
放送では、おかげ参りよりも、伊勢参拝がもたらした文化交流に重点が置かれていた。
まずは、益子廣三郎が故郷に持ち帰ったお土産が紹介される。お札 119 枚をはじめ、風呂敷、反物等、
郷里の人々にたくさんのものを配った。次に、技術交流が行われたことが説明される。伊勢の米の品種を
持ち帰ったり、進んだ農業技術を見かけたらそれを地方に持ち帰ったりすることが行われた。
さらには、文化交流がある。地方の民謡の中には、伊勢音頭を起源とするものが数多くあるそうだ。
「ヤートコセー」というお囃子がひとつの目印である。江戸時代、お伊勢参りを通じて、
田舎の人々は広い日本を知ったということであった。
明治時代に御師が廃止されて以来、お伊勢参りはすたれたもの、今だに伊勢講が残っている地域があるという
紹介があって驚いた。
[コラム 高木俊輔「ええじゃないか その起こりから果たした役割まで」]
「ええじゃないか」は三河吉田付近で始まったのだそうである。鳥羽伏見戦争で終わりを迎える。
このコラムでは、そういった地理的変遷やらその意味が解説されている。
[第1回 “こっくりさん”に挑んだ妖怪ハンター 11 月 8 日]
明治時代に「こっくり(狐狗狸)様」が大流行した。
その起源は、実はアメリカの降霊術 Table Turning であった。
哲学者・心理学者の井上円了がこの「こっくりさん」を研究した。彼は妖怪学を起こした。
それは、迷信や俗信を科学的にきちんと研究しようとするものであった。
円了は科学を用いて次々に妖怪退治を行った。とくに、
彼は「こっくりさん」を「予期意向不覚筋動」によるものであるとした。
[第2回 千里眼事件 闇に消えた超能力 11 月 15 日]
「千里眼」、具体的には透視と念写が明治時代にブームになった。
東京帝国大学の福来(ふくらい)友吉がこれを研究した。結局のところ、結論は出ず、
福来友吉自身は結局、非科学的な方向に走り、透視や念写は事実だが
科学では解明できない心霊現象だと考えるに至る。現在でも
その遺志を継ぐ「福来心理学研究所」
なるものがあるとはびっくりである。
[コラム 南條竹則「世紀末現象とオカルティズム」]
19 世紀終わりから 20 世紀初めまでイギリスで怪奇小説とか心霊術が流行ったという話。
それで思い出したのは、アガサ・クリスティなんかを読んでいると降霊会や霊媒の話が出てくることだった。
そんな背景があったということを初めて知った。
[第3回 幻の発見 新元素“ニッポニウム” 11 月 22 日]
明治時代の科学上の発明・発見にまつわる話。殊にニッポニウムとオリザニンの話を取り上げている。
本には、Z項の話も載っているが、番組ではあまり取り上げられていなかったように思う。
ニッポニウムは小川正孝が発見したと称した元素であったが、原子番号を誤って推定してしまい、
発見を取り逃がしたもの。実際には、レニウムを発見したことになっていたらしい。詳細は、
梶雅範・吉原賢二による記事に書かれている。
鈴木梅太郎によるオリザニンの発見は、実質的にはビタミンB1の発見だったにもかかわらず、
軽んじられてしまった。
[コラム 金子勉「科学の中の和洋折衷」]
長岡半太郎、鈴木梅太郎、高峰譲吉の日本の科学開拓者としての苦労の話。
[第4回 ハレー彗星大接近!地球滅亡騒動 11 月 29 日]
彗星が地球に衝突するという騒ぎが明治時代に少なくとも3度あったという話。このうち一番有名なのは
3度目の 1910 年のハレー彗星騒動である。地球がハレー彗星の尾に入って、有毒ガスが撒き散らされるのではないか
という話である。昔「空気がなくなる日」(岩倉政治著)という本を読んだのを思い出した。これは、
このハレー彗星騒動を題材にした子供向けの話だったと思う。この話は映画化もされ、それは番組でも紹介されていた。
これらの彗星衝突騒動はもちろん杞憂だったわけだが、こういった太陽系内の小天体が地球に衝突する可能性は
皆無ではないわけで、恐竜絶滅の原因がそのような事件であったというのは現在では定説である。たとえば
「日本スペースガード協会」
のようなまじめな団体もある。