世の中、マスコミに毒されていると、右と左の2種類の選択肢しかないような議論がなされていて ついついそれに巻き込まれてしまう。ところが、上とか下とか前とか後とか、立ち位置を変えると いろいろな見方ができるし、いろいろな考え方があって良い。最近ネットを見ていると、 そういうのに出くわすことが時々あり(著者の blog もそのひとつ)、相対的にテレビのニュース番組や 討論番組が面白くなくなった。この本の言葉を引用する。
政治評論家というのはぜんぜん実感を伴わない政治的用語(「国際貢献」とか「構造改革」とか)を まるで「人参」とか「仏和辞典」のような実在物のように語ることができる人のことである。そうなのだ。世の中の政治評論が、最近とみに空疎に見える。ことばが浮遊しているからだ。
私にはそれができない。
「国際貢献」というものをひもで縛って、包装紙にくるんで、「はいよ」と見せてくれたら、 私もその実在を信じるだろうが、そうでなければ信じない。
(中略)
「ひもで縛って、紙にくるんで、『はいよ』と見せられないもの」はあらかた幻想であり、 それを扱うときはふつうの「もの」を扱うときとは扱いを変えなければいけない。
さて、著者は、フランス現代思想(とくに構造主義)の研究者であるらしい。 構造主義というのは、あとがきによれば、「自分の目にはウロコが入っていることを いつも勘定に入れて、『自分の眼に見えるもの』について語る」という態度なのだそうだ。 そういうわけで、著者にはいつも自分の眼に映るものに対する反省をする習慣があるから、 このようにふつうと違った視点から世の中を見ることができているのだと思う。
教育機関にいる者のはしくれとしては気にかかる「学力低下」や「ニート」問題に関しては、次のような 2つの考察をしている。1つ目は、学ばないことや働かないことは良いことだという確信が 子供たちに根付いているらしいのはなぜかという問題である。最近の家庭の状況では、子供は 不快に耐えることを労働だと考える。そうすると、「むかつく!」と言っていれば不快に 耐えていることになるから、労働をした満足感に浸れる。そして、「むかつく!」がたまると、 これまでいっぱい我慢をしてきたたのだから周りの人を不快にしても構わない、ということになって、 周囲に不機嫌をまき散らす。このようにして、何もしないでむかついてばかりいることが、正当化される。 2つ目は、格差社会の底辺にいる者は、格差社会の実情を熟知しているからエライ、という論理に関してである。 これは、マルクス主義者やフェミニストが使ってきた論理と同じだ。しかし、格差社会のゲームのルールを 一番良く知っているのが、格差社会の下位にいる人だとすると、彼らが這い上がれない理由は 「下位の者には構造的に這い上がる手段が与えられていない」というものしかなくなる。 そこで、この論理を採用した下位の者は下位に踏みとどまろうとする。
とはいえ、上のように自分でサマリーを作ってみると、著者が語っているのは、 「学力低下」や「ニート」問題の根本というよりは一側面だけであることもわかるのだが、 でも、その視点が面白いので、ついつい引き込まれて読んでしまう。
本書の最後に収録されているエッセイは、われわれは「フェミニンな共産主義社会」に向かっているの ではないかという予想である。それは、一言でいえば、貧しいけれど、温かい社会である。 これからの脱石油社会を考えてみると、楽観的な方の予想がこれなのではあるまいか。