ここに書かれているように、小さな甲虫類は、昆虫マニアが行きつく先の一つである。
砂地にすむ昆虫の採集が、男の目的だったのである。そういうわけで、小さな虫は「ちょっと変人」のメルクマールになる。 「この地味さがたまらん。どうだ参ったか」って感じ。 かの養老孟司センセもゾウムシ屋さんである。
むろん、砂地の虫は、形も小さく、地味である。だが、一人前の採集マニアともなれば、 蝶やトンボなどに、目をくれたりするものではない。
この小説の魅力は、さまざまのイメージにいろいろな見方ができるようにしつらえてある点だと思う。 「変容―メタモルフォーゼ」という言葉がこの小説の形容に相応しい。イメージは 次々に砂丘の風紋のようなメタモルフォーゼを受ける。
[1:家] 砂に埋もれかけた部落や家は、逃げ出すべき牢獄のような場所では必ずしもない。 最初、主人公の男にとって、そこは単なる蟻地獄だった。だから必死で逃げだそうとした。 しかし、それは変容し、この小説の最後の一文では
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。となる。砂の牢獄は、一面では逃れられない現実の徒労を象徴し、一面では現実からの逃避先を象徴する。 そこは地獄なのか、魂の救済の場所なのか?
[2:女] 砂の底にすむ女。それは最初は、希望を失った影のような存在だった。しかし、主人公の男が砂の生活に 馴れるにつれ、それと交錯するように現実的な生を担うようになってくる。この小説の終わり近くでは
さらに、二た月たって、大きな白い鳥が三日にわたって西から東に飛んでいったあくる日、 突然女が下半身を地に染めて、激痛を訴えだした。親類に獣医がいるという部落の誰かが、 子宮外妊娠だろうと診断を下し、オート三輪で、町の病院に入院させることになった。という冷たい現実がかぶさる。
[3:砂] 最初から最後まで主人公を悩ます砂。それは最初は理屈っぽく描かれる。
砂とは要するに、砕けた岩石のなかの、石ころと粘土の中間だということだ。しかし、単に中間物というだけでは、 まだ完全な説明とは言いがたい。石と、砂と、粘土の三つが、複雑にまじり合っている土の中から、 なぜとくに砂だけがふるい分けられ、独立の沙漠や砂地などになりえたのか?(中略)さらに奇妙なことには、 それが砂であるかぎり、江之島海岸の砂であろうと、ゴビ沙漠の砂であろうと、その粒の大きさにはほとんど変化がなく、 1/8 m.m. を中心に、ほぼガウスの誤差曲線にちかいカーブをえがいて分布していると言うことである。実は、理系人間としては、砂のダイナミクスを考えさせられるので(この記述がどのくらい本当なのかは 知らないが)ここはこれだけでも興味深い。最初主人公はこれを乾燥した流動だと思っていた。
砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、 いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを 強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。ところが水を吸うと砂はネトネトとまとわりつく粘着質のものに変容してゆく。主人公はそれに絡め取られて 結局身動きができなくなってしまう。ところが、最後になると、砂は水分を吸い上げてくれるありがたいものに なっている。