(MM) は、著書「日本語が亡びるとき」に関するインタビューである。 「国語」としての日本語を大切に使用という内容である。ここでいう「国語」は 単なる「現地語」とは区別されている。「現地語」は日常的に使われる言葉で、 「現地語」としての日本語がなくなる心配はしていない。「国語」は、意味のある 知識を伝える文章で再読に耐えうるようなものを書くための言語である。それを守るためには、 近代文学の古典くらいは読めるようになっておきましょうね、と(MM)は主張している。
(HS)は、いかにもフランス文学者らしい斜に構えた語り口なので、言っている個々の問題は わかるけど、全体的にはピンと来ない。インタビューだからしょうがないかもしれないけど。 まず最初に、個々の国語を超えた普遍的な言語体験が重要だと述べている。 次に、英語が普遍語になったことは英米にとっては悪いことなのではないかと述べている。 それから、英語以外の外国語を知ることも重要だと述べている(フランス文学者としては 当然か?)。さらに、外国語を学ぶ目的は、外国人と議論をするためだと述べている。
ところで、(HS)で話題にされている蓮實氏の著書「反=日本語論」は学生の頃読んだ気がするが、 何が書いてあったのかほとんど覚えていない。
(AH)は、「美しい日本語」なるものにはあまり意味が無くて、教育においては 論理的な文章を書く技術を教えるべきだと論じている。私も賛成である。 以下、気に入った部分の引用:
これはディベート教育の話とも異なります。賛成/反対に分かれて勝敗を決めるのが ディベートですが、実社会でそういう機会はほとんどない。A さんと B さんの対立する 意見の中に妥協点を探り、合意を形成することが必要なのです。つまり、求められるのは 実際的な問題処理能力です。そういうときにこそ論理は助けになる。
文章を書く、もしくは文章を読むというのはまず第一に技術です。 技術があるからこそ表現が可能になります。だからその技術を教えるべきです。 ぼくは、そうした技術を教えるときに、「まず古典を読め」と言うのは、 イラストレーターになりたいと言っている人に対して「美術館に一日100回 通い詰めろ」と言っているのと同じだと思います。それでは教えていることにはならない。