南原繁 ―近代日本と知識人―

加藤節著
岩波新書 新赤 514、岩波書店
刊行:1997/07/22
第4回名古屋大学ホームカミングデー(2008 年 10 月)の「本のリユース市」(図書館の本の払い下げ市)で購入
読了日:2009/02/19
南原繁の評伝。南原繁がどういう人か知りたくなって読んでみた。 これを読んで、南原繁がどうして戦争直後の日本のオピニオン・リーダーに なったのかがよくわかった。

南原繁は、香川の田舎の秀才で、一高→東大と進んだ。 一高では、新渡戸稲造、内村鑑三らの感化を受けて、近代の精神に目覚めた。 東大卒業後、官僚になったものの、彼が作成した進歩的な労働組合法案が握りつぶされたのをのを きっかけとして、東大助教授になる。すぐに3年間ヨーロッパ留学をして、政治哲学者の 道に入る。帰国後間もなく教授になる。そのうち軍国主義の影響が大学に及ぶようになるものの、 南原は象牙の塔の人であったために、体制との直接的な対決には巻き込まれなかった。 南原の政治哲学は、真・善・美・正義という価値の実現を図るという理想主義的なものであった。 彼は、ナチズムにもマルクス主義にも批判的だった。 戦時下で発刊された「国家と宗教」は反体制的であったにもかかわらず、 南原が論壇では無名であったことと、難解すぎたために検閲に引っかからずに済んだ。

上記のような経歴のために、南原は戦争直後のオピニオン・リーダーになり得た。 彼は、信念を持った理想主義者であったために、終戦によって自分の思想を変更する必要が無かった。 戦前は反体制的な思想を持っていたにもかかわらず、目立たなかったので、アカデミズムの中に 留まっていることができていた。それで、彼は終戦を機にオピニオン・リーダーとなったのである。

終戦前、南原は、正義のために枢軸側が負けなければならないと考えていたのだが、 彼はナショナリストなので、戦後いち早く民族の復活と再生を説くことができた。 彼は天皇制を支持していたが、天皇の人間宣言は歓迎し、同時に戦争の道徳的責任を取って 天皇は退位すべきだと考えていた。彼は、国家の自衛権は必要だと思っていたが、 自衛隊に関しては、冷戦の一方に加担するもので、自衛のためのものでも国際平和のためのものでも ないとして反対した。彼が片面講和に反対したのも同じ理由である。 南原は、GHQ の信頼を得て、戦後の教育改革を主導した。 しかし、その改革は後に教育委員会公選制が廃止になるなど後退してしまった。

南原の理想主義には今となっては古くささを感じさせるところも多い。 著者は、とくに「民族共同体」の考えには強い違和感を感じると書いている。 私も、真・善・美・正義という価値には引っかかるものを感じる。しかしながら、 こうした理想主義が、実は一番強いのかもしれない。あまり相対主義的だと 主張の力が弱くなってしまうからだ。なにしろ、南原の主張には、 今見ても正しいと思えることが多い。日本がアメリカの属国化していることは 最近だんだん目に余るほどになってきているし、公選でない教育委員会制度が 腐敗をしてきていることも明らかになってきている。