明治・大正の日本の地震学 「ローカル・サイエンス」を超えて
金凡性著
東京大学出版会
刊行:2008/01/22
日本地球惑星科学連合 2009 年大会出版社ブースで購入
読了:2009/09/11
科学史家の書いた日本学の地震学の歴史である。科学史家らしく、地震学者が書くような通説とは違って、
当時の時代背景をきちんと意識しながら書いてある。地震学会が日本から始まったということは
単純に自慢することでもなくて、お雇い外国人のサークルであったこととか、
評価が低くなりがちな大森地震学をそれなりに高く評価していることが私にとっては新しかった。
地震現象と気象現象を関連付けた研究が日本では早くから行われていたということは、私には意外だった。
私たちは、地震学はまず力学の応用であるという感じで習うし、そのような研究が現在では多くを
占めているために、私が最初に地震と気象現象の関係の話のようなことを聞いたときはむしろ新鮮な感じがした。
でも、実はそうではなくて、地震学が物理学に基づく以前は、そういった研究は主流派の一つだったのだ。
以下、サマリー。
- 第1章 地震計の科学、ネットワークの科学
- 世界最初の地震学会は日本でできたのだが、これはお雇い外国人のうちとくにイギリス人を中心にした
サークルのようなものであった。地震学を大きく発展させた地震計は、お雇い外国人の
Ewing、Gray、Milne が開発した。彼らの開発した地震計によって、地震の揺れは図形で表現されるものとなり、
室内で研究できるものになった。Ewing が地震学を単に力学の応用ととらえ、
地震計で良い記録を得ることにのみ興味があったのに対し、Milne は地震学を総合科学であると考え、
関連するあらゆる情報を収集して総合的に研究しようとした。そこで、データ収集のネットワークを
いろいろ工夫した。
- 第2章 予防と防御の科学
- 1880 年代になると、お雇い外国人は帰国することになり、知識を吸収した日本人が日本の科学を担って
ゆくことになる。ここでは、気象台、帝国大学、震災予防調査会の3つの機関を見てゆく。
- 日本において、地震の観測は気象台(1874-1895 年は内務省が所管)が担うことになった。
気象観測ネットワークが地震観測ネットワークを兼ねたのである。1885 年設けられた
内務省地理局験震課の課長には Ewing の弟子であった関谷清景が就いた。関谷は簡単な構造の地震計を
工夫して、地震計を普及させた。地震観測が気象台で行われたことから、地震と気象現象の関連も
さかんに研究されるようになった。
- 東京大学では、Ewing が 1880 年に地震学実験所を作った。1886 年に東京大学は帝国大学になり、
地震学教室が設置され、験震課長の関谷清景が教授を兼任した。当初の地震学の講義は造家学科
(のちの建築学科)のためのものであった。日本の地震研究の特徴として、耐震建築の研究が重要視された。一方、
お雇い外国人が帰国する中で、1892 年、日本地震学会は解散した。
- 政府の組織として 1892 年、震災予防調査会が作られることになった。特徴は、工学(耐震建築)が
重視された理工融合の組織だったことと、気象学のように予知予報をすることを目指していたことである。
明治の日本の地震学は、すでに自らが研究課題を設定するようになっていたという点が特筆すべきである。
これに対し、重力や地磁気観測は、欧米が必要としていた課題に沿ってデータが集められた。
- 第3章 世界を観測する
- 1890 年代からの約 30 年間、大森房吉は日本の地震学の中心人物であっただけでなく、世界的にも権威として
活躍した。大森の地震学はあまり物理的でなく統計を用いたものであったために、現在では評価が低いが、
以下に見るような意味で実際に世界的にも名を知られた権威であった。
- 大森は、日本の地震学の中心にいたので、日本全体からやってくるデータを使うことができた。
大森はそのデータを用いていろいろなグラフを描いて、地震と気象現象との関係を論じた。
大森は、地震学の主因はもちろん地殻のひずみであることを認識していたが、地震の最終的な
引き金を引くのは、副因である気象現象やら潮汐現象やらでありうると考えていた。
統計を用いることは、決して低く評価すべきものではなく、大森がデータを司る立場にあったことを示している。
- 大森は、遠地地震を記録するために長周期の地震計を自ら開発し、それを用いて世界中で起こる地震を
キャッチしていた。それとともに、Milne などを通して海外から地震記録を入手して、世界中の地震の
震源の推定などを行っていた。それを持って、海外で地震が起こったところに出張して行って、
調査をするとともに、地震学の権威として外国人に知識を提供してさえいた。
そういうわけで、大森は、当時、日本発の科学ができる日本の英雄であった。
- 第4章 物理学の挑戦
- 1900 年代から物理学に基づいた地震学が日本で行われるようになり、1920 年代から大森地震学は
だんだんと忘れられていった。
- 1900 年代には、長岡半太郎やその弟子の日下部四郎太は、岩石の弾性係数の測定など
実験室地震学を行った。長岡・日下部は大森を批判した。1910 年代以降、長岡や日下部は
地震学の研究を行っていない。
- 1910 年代には、日下部の他に志田順なども大森地震学を批判した。一方、長岡は、
土星型原子モデルにより名声が高まった。
- 1920 年代に入って、大森・今村路線は評価を下げ、地震の物理的な研究の地位が上がった。
1925 年に設立された地震研究所では、力学的な研究が重要視された。今村の後任の松澤武雄は、
地殻構造の理解をまず重要視した。
このようにして、地震学は地球物理学の一部になっていった。
- 終章 「追いつき」のヒストリオグラフィー
- 日本の科学の歴史は、西洋に追いついてゆく歴史であるとされることが多い。しかし、地震学に関しては、
一時的に先進国になったものの、その後は改めて西洋の流れ(地球物理学の一部としての地震学)に
追いつくという経過をたどった。
一か所誤りを発見した。
p.111 で「湿式振子 (damped pendulum)」とわざわざ英語を書いてあるのは、たぶん和訳に
自信がなかったせいだろうと思うけど、実際この和訳は不適切だ。実は適切な短い訳語はない。
日本語にするとすると「抵抗による減衰装置の付いた振子」とでもするよりないだろう。