この本が扱っている内容は、「日本の文学においては、ご近所の先進国であった中国とは 全く対照的に、女性重視であるのはなぜか?」という問題である。 前半の「恋と日本文学と本居宣長」では、日本文学に恋の比重が高いのはなぜか、 後半の「女の救はれ」では、日本文学に女人成仏とか女系家族とかいった題材が出てくるのはなぜか、 ということが考察される。
「恋と日本文学と本居宣長」サマリー
中国に恋愛文学がほとんどないのに対し、日本は恋愛文学だらけなのはどういうことか?
日本の文学では、小説の祖である「源氏物語」は恋しか扱ってないようなものだし、
和歌でも「小倉百人一首」の少なくとも1/3、「新古今和歌集」の少なくとも1/5は
恋の歌である。長らく日本がお手本にしてきた中国に比べて何と恋愛文学が多いことか!
これを問題にしたのが本居宣長であった。今から見れば、西洋にも恋愛文学が多いから
中国の方がおかしいと軽く言えてしまうが、西洋文学を知らなかったはずの本居宣長にとっては
考察に勇気を必要とする問題であった。宣長は、先進国の中国人は偽善者で嘘つきだと言った。
正直に、しかも優美に恋を表現することが、宣長の「もののあはれ」であった。
そして、日本において恋愛文学が盛んだったことは、明治時代に西洋文学をすんなりと
受容できることになる土壌となった。
「女の救はれ」サマリー
日本においては女人成仏とか女系家族とかいったことが文学に現れる。これまた中国にはない。
「平家物語」は、恋多き(罪深い)女であった建礼門院徳子が
阿弥陀仏に迎えられて往生するという女人往生で終わる。「曽我物語」の最後も女人成仏である。
「源氏物語」の終わり方は変てこりんだけど、これも浮舟の宗教的法悦を暗示していると
読むことが出来る。こういう女人往生譚が出てくるのは、もともと日本が女系家族制だった
からではなかろうか?スサノオやヤマトタケルが故郷を追われたのは、王女が相続するので
王子は出て行かざるを得なかったからであろう。現代においても、
人気小説の「細雪」では女系家族が描かれている。
狂歌が一つ引用されていた。
日の本は天の岩戸の昔から女ならでは夜の明けぬ国確かに日本の伝統はアマテラスから始まるから女系であった。 天皇の皇位継承も、ほんとうは女系こそが正しい伝統なのではなかろうか?