都城の歩んだ道:自伝 地質学の巨人 都城秋穂の生涯 第1巻

都城秋穂著
東信堂
刊行:2009/09/15
K 先生より拝借
読了:2009/09/26
昨年亡くなった都城先生の遺稿のひとつの自伝である。遺稿なので、最後が中途半端なところで 終わり、残りは編集委員が補足している。1章から5章までが正真正銘の自伝で、これは東大助手の 時代で終わっている。6章が、小島丈兒をはじめとする東大の先輩のことが書いてある。 7章は、自伝とは別に書くつもりだったのか、東大時代の自身の研究の流れが書いてある。 8章は、編集委員による北米時代の研究のまとめである。編集委員による補足の部分は 急いで書かれたせいか、以下にメモしておくようにミスプリが多少目立つ。それから、参考文献が 完全でないのが困った点である。

遺稿であることによる多少の不完全さがあるとはいえ、この自伝は文句無く面白い。 都城先生の生い立ちがわかるだけではなく、 第二次世界大戦前後の日本の地質学の状況がビビッドに極めて批判的に描かれていて、 そのころの日本の地質学のレベルがいかに世界に遅れていたかがよくわかる。

都城先生の誠実さが反映しているのか、人物評価などが直裁ではっきりしている。 ここで批判されている人々はすでに亡くなられた人が多いけれども、 そのような人々から都城先生が憎まれたりしたことが容易に想像できるほど 人物評価には迷いが無い。感受性が鋭いのだろう。 人物評価だけでなく、第二次世界大戦の記述でも

私は田舎で私を取り巻く人たちがみんな戦争好きなのを見て嫌悪を感じながら育ちました。 その人たちの戦争好きは、多少は軍の宣伝に影響されていたのでしょうが、もっと 根本的に文部省の軍国主義教育から来たものでした。またそのほかに、戦争をすれば勝って 領地を取ってきて、自分たちの生活が楽になるという考えが強く支配的だったためです。(p.189)
とか、
そのころ私は、世界の将来や私の人生に希望を失ってしまって、虚無的な気持ちでいましたから、 死ぬことを恐れる理由はありませんでした。大戦中一度も防空壕に入ることもなく、 空襲のときはいつも屋上や物干台に出て、眺めていました。(p.230)
など、驚くほどはっきりしている。子供の頃の話が書いてあるところでも、戦前の神社が
神社は明治の初めから政府の国民に対する思想統制、皇国思想普及の道具であった。(p.27)
とばっさり斬られているし、空海も
空海は特別に処世の才能と詩文の能力との両方に恵まれていたので、うまく天皇の愛顧をえて、 真言宗の大教団を造ることに成功した大実業家であった。(p.34)
とこれまたばっさりである。

編集委員の某氏の情報だと、第2刷(or第2版?)には索引が付いたり、表紙がもうちょっと カラフルになったりするそうである(そのかわり値段も少し高くなりそう)。


気付いたミスプリ(初版第1刷)
p.ix l.1
(誤)一九二五年 (正)一九二〇年
p.245 l.4
(誤)変異がが特別に (正)変異が特別に
p.336 l.10
(誤)図20 (正)図19
p.337 l.5
(誤)図21 (正)図20
p.345 l.13
(誤)岩波書店をつくった岩波雄二郎 (正)岩波書店創業者の次男の岩波雄二郎
ただし、岩波雄二郎は、岩波書店が株式会社となったときの初代社長ではある。
p.348 l.7
(誤)たとえば、泊 次郎 (正)たとえば、泊、二〇〇八
引用されているものは、おそらく、泊次郎 (2008)「プレートテクトニクスの拒絶と受容」(東京大学出版会)である。
ただし、引用してある文の意味がよくわからない。
p.349 l.4
ここの(後述)がどこを指すのかよくわからない。
p.362 l.7
(誤)?mile (正)Émile
p.363 l.7
(誤)Everything?at (正)Everything at
p.363 l.10
(誤)maveric (正)maverick
p.365 l.16
(誤)東へと移り (正)北へと移り
文脈からは「北」でないとおかしいが、ひょっとすると他に書き落としていることがあって 「東」になっているという可能性はある。
p.367 l.8
(誤)『科学革命とは何か?』 (正)『科学革命とは何か』
p.384 l.3
(誤)六方水晶系 (正)六方晶系